眩暈
 彼は起きてすぐにコーヒーを淹れる。私はいつも真っ白のノートに向かっている。コーヒーの香ばしい匂いで部屋中が満たされる。私たちは会話などしない。彼はコーヒーを飲みながらメールのチェックをする。私は彼の存在など見えないように、小説を書き続ける。出版される予定はおろか、誰にも読まれる予定もない悲しい文字たち。私はそれ以外にすることがない。ベルリンの観光など興味がなかったし、仕事もする気がなかった。今後どうやって生きていくのか、自分でも見当がつかなかった。私の人生はとっくの昔にホープレスになってしまっていた。
「また小説を書いているの?」
彼はノートに敷き詰められた文字たちを好奇心に満ちた目で覗いて、それからすぐに、わからないと言う風に口をへの字にした。私は書いているものを隠さなかった。もし彼が日本人で、日本語が読めたらこんな風に自分が書いたものを晒さなかっただろう。
「日本語が、読めたらな。いつか君の本をセルビア語で読めることを期待しているよ」
彼はなんとも泣かせる台詞を口にした。
「あなたは私の最初の読者よ」
私がそう伝えると、彼は光栄だね、と言って笑った。
彼は音楽をかける。とても古いブラックミュージック。音楽は私の人生の一部だったけれど、音楽を聴きながら小説を書くことは出来なかった。だけど彼が選ぶ音楽が大好きで、私は書く手を止めて、それに聞き入ってしまう。誰が歌っているのかは、知らない。男に捨てられた悲しい女の曲みたいに聞える。そのメランコリックな音楽を聴くと、一日をとてもドラマチックな気分で過ごせた。私の大好きなロックンロールを聴いていると、彼はいつも眉をしかめたけれど。
「誰の曲?」
「誰の曲だったかな。でもすごく古い曲だよ」
「この曲、好きだわ。悲しくて、すごくきれいね」
私たちはしばらく黙ってその曲を聴いていた。その曲が終わっても部屋中に余韻が残っていた。私はノートを閉じた。
「書くことに疲れたわ。散歩に付き合わない?」
朝から何時間もノートに向かっていたが、数行書いては消して、数行書いては消していた。
「いいね」
彼はそう言って笑った。私たちは、コーヒーを淹れ、ポットに注ぎ、サンドウィッチを作り、ピクニックボックスに入れた。マウラーパークの蚤の市で、五ドルで買ったやつだ。グランマみたい!と言って、ルカは馬鹿にしたけれど。
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