眩暈
私は外出先から帰る時、どうか今日は誰もいませんようにと祈りながら帰った。そしてアパートメントの階段を昇り、自分の家に近づくと聞えてくる大音量の音楽を聴いて、絶望した気持ちになった。寒さに凍えながら、扉の前で長い時間を過ごしたこともある。私に音楽があったことは救いだ。ヘッドフォンから流れる音楽は、クレイジーな音楽をかき消してくれた。私はその頃いつもパティ・スミスのPastime Paradiseを聴いていた。何度も何度も。美しいピアノの音に何度も涙が出た。本当にきれいな曲だった。
寒さで凍えていると、隣の部屋に住む男性が現れて、私にドイツ語で何かしら苦情を言ったけれど、残念ながらドイツ語のわからない私に何を言っても無駄だった。私は彼に同情した。彼にとってみたら、この狂乱に気が狂う思いだったのかもしれない。人は自分が経験して始めて他人を理解する。そして彼も私が中に入らない理由を察して、私に同情する顔をした。私は肩をすくめた。以前はこのドイツ人のおじさんのことを、ルカと一緒に笑ったのに。ほんの少し時間を戻すだけなのに、なんだかとても昔のことのように思えた。私とルカはもう一緒に笑うことなどないのではないかという不安が、いきなり私を襲った。私は帰りたかった。私たちの家へ。私が玄関を開けると、ルカはキッチンで煙草を吸っている。彼の横にはチキータがいる。私に向かってハイと言う。私もハイと返して、今日一日がどんな日だったか彼に話して聞かせる。そんな日が続くと思っていた。彼にステディな恋人が出来るまで。もしくは私に恋人が出来るまで。でももう何かが違う。もしかしたら、ルカは今誰かと寝ているかもしれない。その考えは私をみじめな気持ちにした。私は思い立って、下の階に住んでいるパウロの家の扉をノックした。扉を開けてくれたのは、パウロのガールフレンドのアナだった。鍵を忘れたの、と嘘をつくと、アナは快く家の中に入れてくれた。パウロが凍える私を見て驚いた顔をした。この人もルカと同じ瞳の色だったんだ。私はぼんやりと思った。私は何も見えていなかったのだと悟った。あの栗色の瞳しか。気を利かせたアナがミルクを温めてくれた。
「ミルクに蜂蜜は入れる、ヨーコ?」
気取ったようなアナのブリティッシュアクセントもなんだかとても心地よかった。
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