眩暈
ある日、キッチンで鶏肉をさばくことに苦戦していると、ルカがやって来て、林檎を齧りながら無表情に言った。鶏肉をスパイシーに味付けをして、アンディに食べさせてあげる予定だった。彼の仕事が終わる前に下ごしらえをしておきたかったのだ。アンディは何を食べてもおいしいと言ってくれるに決まっていた。
「そう?知らないわ」
私は適当に答えた。料理に挑戦する私のあまりの不器用さにルカは呆れたようだった。
「そんな風にやるから、うまくさばけないんだよ。こうやって・・・」
私にアドバイスをしようとして、私の手を握ろうとした。その時私は自分でもびっくりするほどの素早さでルカの手を振り払った。私は自分の行動に自分で慌てて、ルカの顔を見た。
「ごめんなさい」
大丈夫かと尋ねようとした瞬間に、私はぶつかった。見たこともないくらいに悲しい瞳に。まるで小さな子供がママにその手を振り解かれた時のように。そんな顔、しないで。私は、言葉が出てこなかった。こんな時、何も役に立たない私の言葉たち。
「口を、出すべきじゃなかったね」
ルカの方が先に口を開いた。私は、ただ首を横に振った。彼は自分の部屋に戻り、彼の部屋の扉を閉めた。その扉は二度と開くことのないように思えた。私は閉められた扉を長い間見つめていた。

 アンディが一緒に暮らさないかと提案した時、私はすぐに了承した。君が自分以外の男と暮らすことに我慢が出来そうにない、と私の手を握りしめて、アンディは言った。すでにほとんどの時間を彼の家で過ごしていたし、あまり行ったことのない旧西側のベルリンでの生活は私をわくわくさせた。旧東側と旧西側はやはりどこか違った。ベルリンの壁が崩壊して二十数年経った今でも。ルカの顔が一瞬浮かんだが、すぐに掻き消した。私は寝てもいない男のことをもうこれ以上待つ必要も、思う必要もない。私は何かとても自由になれた気がした。
< 35 / 45 >

この作品をシェア

pagetop