眩暈
 アンディの家から出ると、外は曇り空だった。空気は、とても冷たい。高いビルディングが何もないベルリンの空はとても広く、果てしなく広がっているように思えた。この街で出来ないことなど、何もない。急に私はなぜかそう思った。旧東側に帰ったら、ルカと話をしなくては。ここを出て行く。ルカにそう言わなくては。彼はすぐに新しい同居人を見つけるだろう。シャワーの時に水を使いすぎる同居人から、掃除が嫌いな同居人から、Rの発音がうまく出来ないジャパニーズガールから、彼の帰りをひたすらに待つばかりの女から、彼は解放される。それだけだ。
 私が帰ってきた時、ルカはいなかった。チキータもいなかった。もう外は、雨が降っていた。ベルリンの冬は、よく雨が降る。いつだったか、アンディは言った。ロンドンの天気はみじめだと。日本で生まれた私はその表現に衝撃を受けたものだけれど、みじめな天気とはこういうことを言うのだろうと思った。どんより曇り空。滅入るような寒さ。それから悲しい雨。でも私は雨がアスファルトを濡らす香りが好きだった。部屋の中から眺める雨の様子が好きだった。部屋に閉じこもって、雨の音を聞いていると、ルカが帰ってきた。話があるの、そう言わなくては。私が部屋を出ようとノブに手をかけると、女の声が聞えた。私は扉を開けなかった。彼らは私がいないと思ったのか、抱き合い始めた。女の声が聞える。それはルール違反よ、ルカ。私は思ったが、耳を塞がなかった。私はただ、雨音が聞きたかっただけだ。私はそれが終わるまで、じっと静かに待った。他人の情事。私から数メートルも離れていないその場所で。
 雨が上がる頃、もう声は聞えなかった。遠くから教会の鐘の音が聞えた。窓から外を眺めると、空は少しだけ晴れていて、金色に染まった雲がゆっくりと流れていた。長靴を履いた金髪の子供たちが、水溜りではしゃいでいる。雨に打たれたプラタナスの葉が落ちて、黄色い絨毯を作る。私はそれをぼんやりと見ていた。
 玄関の扉が閉まる音がして、我に返った。私はのそのそと起きあがった。私は下着に近いような格好で、キッチンへ向かう。化粧は剥げている。でも気にならなかった。ハロー。煙草を吸いながら、私は彼に言った。ルカは無表情に私を一瞥して、ハローと返しただけだった。
「私、出て行くわ」
< 36 / 45 >

この作品をシェア

pagetop