眩暈
ありがとうと言った後、私はやっと落ち着いて部屋を眺めることが出来た。アパート自体はとても古かったが、家の中はとてもきちんと手入れされていて、キッチンもきれいに整頓されていた。冷蔵庫にはたくさんのポストカードが貼られている。どれも世界中の旅先から送られて来たものばかりだった。それから一枚の写真。私はそれを凝視した。数人の友達に囲まれた彼。彼は若く、とても楽しそうに見えた。もしかしたらそれはユーゴスラヴィアで撮られたものだったのかもしれない。壁にはヨーロッパ全土の地図、ドイツ全土の地図、それからベルリンの地図が掲げられていた。開け放しの彼の部屋のベッド近くには旧ユーゴスラヴィアの地図もあった。私が地図を見ていることに気がついた彼は、コーヒーを淹れながら言った。
「おっと、世界地図がないね。でも日本がどこにあるかは知っているよ。俺は…ヨーロッパから出たことないけど」
そう言って笑う彼の英語は間違いだらけだったけれど、彼の話し方は嫌いじゃない、と思った。
「日本がどこにあるか知っていてくれて、よかったわ。そう言えば、私、昔ユーゴスラヴィアの歴史についての本を読んだことがあったわ」
私は彼の国のことを知っているよ、と少しだけ媚びた気持ちでその言葉を口にした。本当は“ユーゴスラヴィア内戦の本”を読んだことがあったのだけれど、あまり知らない間柄なのにその話はしたくなかった。
「本当?どんな?」
彼は煙草をふかしながら、私を見た。その顔は、笑っていなかった。その本にセルビアのどんなことが書かれているかということに興味があるというよりも、私が読んだその本はユーゴスラヴィア内戦について書かれていると始めからわかっているようだった。
「ただの歴史の本よ」
私はどこか気まずい気分で答えた。彼の表情が一瞬曇ったことをすぐに理解したから。
「きっと真実なこともあれば、真実じゃないこともある」
彼はそう言って微笑んだ。私は暗い話や政治の臭いのする話を続ける気にはならなかったので、すぐに話題を変えた。下らない天候の話題に。その話題は誰も傷つけない。
< 8 / 45 >

この作品をシェア

pagetop