グッドバイ
セミが弱く鳴いている。帰宅の途につく人たちに混じって、二人はゆっくりと歩いた。
「オフィスビルだらけだな」
男は大通りに面したビル群を、仰ぐように見上げる。
「知り合いに、会ったりしない?」
男が尋ねた。
「私の会社はこの近くじゃないし……会っても別に構わない」
「へえ」
男は軽く受け流した。
メガネをかけた会社員が、足早に二人を追い越して行った。
美里は思わずその男性の背中を目で追う。背も、髪、顔だって全部違うのに、無意識に視線が持って行かれてしまう。
男は美里の手を取った。
薄闇から漆黒へ。大通りに面する飲食店の明かりが、道路に影を作る。
二人は手をつなぎ、目的もなく歩いた。秋が混じる空気。握った手のひらだけが、汗ばみ心地が悪い。
一駅分は歩いただろうか。
「ここをまっすぐ行くと、どこに着く?」
男が尋ねた。
「どこでもいいわ」
「俺たち、どこまで行くんだろう」
男はそう言って、美里を握る手に力を入れた。
コーヒーではなく、アルコールの方が良かった。
いつまで経っても、踏ん切りがつかない。どこまで歩いても、きっと思い切れない。それは自分のこれまでを見たって、安易に予想のつくことなのに。
「なんだか、怪しい雲だな」
男が空を見上げて言った。
美里も上を向くと、濃紺の夜空に灰色の雲が広がってきているのが見えた。
「傘、ある?」
美里が首を振るやいなや、すぐにパタパタと音を立てて、大きな雨粒が降ってきた。
男が歩道の真ん中で立ち止まる。強まる雨の中、男の黒髪がゆっくりと濡れていく。
「そろそろ、行く?」
男は問いかけた。
白いTシャツが濡れて、男の肌に張り付く。あどけないと感じた顔に、余裕の笑みが浮かんだ。美里の腕を引き、胸に寄せる。
馴染みのない、男の香り。
男は美里の湿った髪に指を入れて、首を軽く触った。ふいの接触に、美里はびくっと身体を震わせる。
「このままだと、ずぶ濡れだ」
男が笑った。
脇を走り去る、たくさんの車。跳ねる水音。都会の喧騒と無関心の真ん中で、美里は男の腕に手を添えた。何かを掴んでいないと、崩れてしまいそうになる。
「行くわ」
美里は答えた。