グッドバイ

どこか埃臭い部屋の中央には、シングルベッドが一つ。絨毯は古びて毛羽立ち、かつては白かっただろう壁は、擦れて茶色くなっている。
扉をくぐったものの進めない美里は、姿見の横で立ち尽くした。
「おいでよ」
隼人は慣れた様子でベッドに座り、左手で美里を手招きする。突然の雨で濡れた髪は、どうしようもない湿気で、重く美里の肩にのしかかっている。頬に触れる髪を、人差し指でそっと耳にかけた。
隼人はそんな美里の様子を、膝に頬杖ををついて眺める。濡れた前髪が額にかかり、切れ長の目がそこから覗く。年齢は美里よりおそらく五つは下だろうが、信じられないほど大人びた視線だ。
隼人はベッドから立ち上がり、美里へ歩み寄る。湿ったデニムと、ムスクの香り。美里は静かに俯いた。
隼人はバスルームの扉を開けると、新しいタオルを手に取る。美里の頭を覆うようにかぶせた。
「濡れちゃったな」
それから、撫でるように優しく髪を拭いた。
大きくて、ゴツゴツとした手に頭を挟まれると、美里の胸がじんじんしてくる。思わず目を強く擦った。
「いいよ。泣いても」
タオル越しに、隼人の声が聞こえる。
「泣かないわ」
顔を上げると、隼人の頬がすぐ間近に見えた。
「キスは?」
美里が訊ねると、「いいよ」と応える。
目を閉じた。
静かに響く空調。
窓に当たる雨粒。
『泣いてもいい』と言われても、どうやって泣いていいのかわからない。目頭が痛くて堪らないのに、なぜ泣けないんだろう。
隼人の唇が、目尻に、頬に、唇の端に当たる。暖かな気配と温度。頭を支えるように手が首の後ろに入れられると、美里は気持ちを落ち着かせるるため、深く息を吐いた。

あの人とのキスは、柔らかくて優しい。タバコとミントの香りがして、唇を離すといつでも照れたような顔をする。三十にもなって、キスでいちいち恥ずかしがる。不器用で、でも正直な唇。

隼人が美里の唇を割って入ってくると、美里は頬を挟む手の平に自分の手を重ねた。タオルが足元に落ちる。
誘うようなキス。美里の気持ちを知ってか、強引なことはしない。そのまましばらく、玄関先で舌を絡めた。
「ベッドに?」
隼人が唇を離し、耳元で囁いた。美里は頷く。隼人は笑って、美里の腕を引いた。

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