この恋は、風邪みたいなものでして。
こくこくと頷いたら満足したのか、そのままピアノの方へ行ってしまった。
そして、スーツの上着を脱ぐと、裾のボタンを外し捲り上げる。
窓は吹き抜けになっていて、ピアノを暖かい陽射しで照らしている。
その中、彼は椅子に座ると指を何度か開いたり曲げたり、一本一本丁寧に指を動かしだす。
そして、手を置くとピアノを弾き出した。
「――っ」
あの時の、だ。
私が五歳の時に、お兄さんと一緒に連弾した曲。
五歳の私には右手を弾くだけでやっとだったあの曲を、また彼が、今度は一人で弾いてくれている。
ピアノの音と共に、ヤス君があの日、私の腕の中に眠ってくれたことを思い出す。
この曲が、私の唯一のお兄さんの思い出だ。
リボンをつけた子猫をくれたあの日の思い出。
『わかば、ヤス君を下さった御手洗さんから電話よ』
その幸せな日々に、いつも不安を舞いこませるのは電話だった。
『子猫の様子はどうですかですって。頂いたんだから、ちゃんと報告してね』
『……』
ああ。
私は、いつも探しても見当たらなく一向に会えないくせに、ヤス君の様子を聞く飼い主さん側からの連絡が嫌いだった。
子供心の中、お兄さんは居なくなってもヤス君は居てくれる、奪われたくないと敵意をむき出しにしていたと思う。