この恋は、風邪みたいなものでして。
プライドが、彼女の素直になりたい心を邪魔していたのかもしれない。
美貌も、才能も、名声もある彼女に、颯真さんが靡かなかったのだから。
「でも本当に残念。『オーベルジュ』の御曹司だなんてさ! これなら猛アタックすれば良かった! 玉の輿じゃん。仕事しなくても一生遊べるじゃん。あーあ。すっごい悔しい。ただの調律師時代にもっと優しく健気に面倒見てやればよかった」
サングラスを外して、ケースにも入れずに無造作にカバンに突っ込むと、珈琲に口も付けずに立ち上がった。
「なんてね。それでも、颯真は貴方だけなんだろうね。ご婚約おめでとう! 色々失礼してごめんね。もう来ないから」
ふっきれたと言わんばかりに腕を組み、私を見下ろしながら笑う。
「結婚式、高いけど弾いてあげるから。依頼してね」
爪先から頭まで完璧で隙のない彼女は、唯一ネイルもされていない手を振りながら会計へと向かう。
わざわざ、今までの事と、誰かから聞いたのかお祝いを言いに来てくれたんだ。
やはり彼女は完璧で、私なんて足元に及ばない素敵な人なんだと思う。
「あ、――あと今日はあのグランドピアノないのね」
帰り際、気になる一言を残して言ったけど。
「もうあれ、調律じゃなくて修理ださなきゃ、酷い音だったよ」
17年以上も、音を奏で続けた私の思い出のグランドピアノに、決定打の一言を言って、去って行った。