この恋は、風邪みたいなものでして。
「言いましたっけ」
昨日、帰り際はもう幸せすぎて何も覚えてない。
そんな私に、颯真さんは口元だけ上げて笑う。
「わかばは本当にモノ覚えが悪すぎる」
「すいません」
「もう俺の事は二度と忘れさせるつもりはないけどね」
ご機嫌に笑うと、いきなり強引に私の肩を抱いた。
「きゃああ」
「今日、ピアニストの茜が来てるだろ? わかばに聴かせたくて俺が依頼したんだ」
「颯真さんが? ってか颯真さん、本当にただの調律師ですか?」
仕事中だからと肩に置かれた手を払いのけると、ちょっと距離を置く。
ほとんど中へ入ってしまったから見られてはいないと思うけど。
颯真さんの余裕のある笑顔が、今はちょっとだけ怖い。その瞳が綺麗だから余計に怖い。
「俺は売れない小説家だよ。で、可愛いたどたどしいピアノを弾く可愛い女の子を好きになってしまったただの調律師でもある」
「売れない小説家?」
「いたーっ 御手洗 律(みたらい りつ)先生」
「お、見つかったか」
「見つかったじゃありません! 遅刻ですよ。皆、貴方待ちです」
慌ただしく会場から走ってきたおじさんは、颯真さんに詰め寄った。