この恋は、風邪みたいなものでして。
「え、あ、はいっ」
「菊池さん、厨房の方、ヘルプしてあげて」
ぼーっとしていた私に、店長がお盆を渡してくれた。
そのまま菊池さんとそそくさと厨房へまた逃げるように入って行く。
慌てて入口の方へ行くと、スーツ姿の男の人がネクタイを触りながら中へ入ってきた。サングラスに、私と同じくマスクをしている。
そして、私の案内を待たずにグランドピアノの方へ向かっていく。
「あの、調律師さんですか!」
後ろからお声をかけたら、小さく頷いた。
何故か私の方を向いてくれない。
「あの、珈琲を」
小走りで後を追うと、調律師さんは片手を上げた。
「時間が無いので、勝手にするから気を使わないで」
「あの、でも、その――」
こんな時どう言うのが正解なのか困惑していると、その人はゆっくり振り向いた。
「風邪気味なので、君に移すと申し訳ないでしょ? 離れていて」
サングラスにマスクのその人は、優しい声でそう言った。
ネクタイを何度も握って落ちつきがないのは、私に気を使っているから?
優しい気遣いに思わず笑みが零れてしまう。
私もマスクに伊達眼鏡姿で笑った。
「私も風邪気味なので、大丈夫です。あ、私のが移ってしまうから、やっぱ駄目ですよね」