櫻の王子と雪の騎士 Ⅲ
...
イーリスは暗い森の中を、裸足でとぼとぼ歩いていた。
時々立ち止まって、名残惜しそうに後ろを振り返る。
(ルミ...)
泣きそうになるとこをぐっと堪え、前に進む。以前と同じように。
一人だった頃と同じように。
そうやって一体何時間歩いたのだろう
すっかり森の深い場所にまで来てしまった
ぐう、とお腹が鳴る
イーリスは幹を背に小さく座り込んだ
(また、一人...)
その寂しさを紛らわすように、花をぎゅっと握りしめる。
そして地面に指を立て、文字を書いていった。
“イーリス”
“おはよう”
“ねむい”
“ごはん”
“つかれた”
“おやすみ”
“ルミア”
彼女と交わした言葉や、名を地面に書いていく
そのたびに目の前が涙で歪んでいって
イーリスは我慢できずにすすり泣き始めてしまった
体育座りで顔を埋め、肩を小刻みに揺らす
「ずっ、うぅ...ううっ...ルミぃ」
そのまま泣いて泣いて、泣き疲れ、
アイリスの花を手に持ったまま、その場で眠ってしまった。
不穏な空気で、イーリスは目を覚ました。
まだまだ小さな彼の体をすっぽり覆う巨大な影。
おそるおそる見上げた先には、
真っ黒で、人の男の大きさを優に上回る巨大な獣がいた。
クマ
いや、それにしては耳が大きく、尾も長い
手には鋭く尖った爪がきらりと光り、剥き出しの牙の隙間からはフーッフーッと乱れた息が抜けていく
「あ...!!まさ、か......」
それは、イーリスが生まれて初めて目にした人狼の姿だった
あまりの恐怖にイーリスは固まってしまう。
ゔゔゔ...と唸るその巨大な人狼は仁王立ちのままイーリスに顔を近づけた。
「キサマ...ワレラノナカマカ」
「え、」
言葉が分かる
「...ワレラノナカマカト、トウテオル」
「...ッ...は、はぃ」
自分とは似ても似つかないが、相手が人狼だと本能的に感じとったイーリスは震えながらも必死に頷いた
そうすれば襲われずに済むと思ったから
しかしそうではなかった
イーリスが瞬きをする、その一瞬
目の前の人狼の、大きな腕が振り下ろされた。
小さな体は横に吹っ飛ぶ。
「ッが...!!?...ゲホッ...うう!」
その衝撃に意識が飛びかけ、呼吸が止まりかける
次の瞬間には、もろに攻撃を食らった左頬は裂け、赤い血が溢れ出て、
生まれて初めて、『痛い』という感覚を知った。
この世に生を受けて以来、無意識のうちに自分の身を守ろうと魔力を使っていたイーリス
しかしルミアに会ってから、彼女の光の魔力の調和の性質にあたったからか、安心しきっていたからか、
はたまた、ルミアを傷つけたくはないという思いが先行したからか、魔力を使った彼の最強の鎧はすっかり鳴りを潜めてしまっていた
襲われた今もなお。
母の腹を裂いて生まれてきたことなど忘れてしまったかのように
初めて自分の身体に襲い掛かる痺れるようなズキズキとする痛み。
それに我をとられる暇もなく、巨大な人狼はイーリスに迫る。
「...ナカマデアレバ、オキテヲヤブルモノ、ユルサズ」
人狼一族には掟がある
けして破ることを許されない掟
《人と関わることを禁ず》
それは大昔、人に長く虐待・差別された歴史があるのだが今その理由を知る必要はない
イーリスの身体からは人の香りがぷんぷんする
「オノガミノ、シヲモッテツグナウガヨイ」
血を流せ
それが掟破りの者が選べる唯一の償いの道。
人狼は痛みと恐怖で動けずにいるイーリスに向かってもう一度、鋭い爪を振り下ろした。