新天地へ
遡り
「行くって、どこへ?」
「新天地の中枢です。とりあえずそこに行ってみます。」
おばちゃんは少し黙った後、
「不思議だねえ。さっきから、あんたの話を聞いてると、自分がここへ連れてこられたみたいな言い方をするね。はるばる新天地まで来て、どこへ行けばいいかわからないやつなんているもんかね。まあ、無理には聞かないけどさ。変な嘘なんてついてもそれは無駄だよ。」
そう言って悲しそうにまたわたしを見上げた。わたしは何も言わなかった。
おばちゃんは少し俯いた後、決心するようにぐっと顔を上げた。
何を言おうとしているかわたしには、この旅に出たわたしにはわかった。
「あのさ、」
そう言ってわたしを見上げた瞳は、彼女が初めて草原を見たあの少女の瞳と同じだった。外の世界に触れた瞬間の、あの輝き。
「じゃあ、わたし、もう行きますね。」
そう言って振り返らずに白い扉を開けた。
「待ちな。」
一声そう言うと、カウンターからがさがさと音を立てながらこっちにやってきた。さっきの少女はもういなかった。
「これ、大事に食べるんだよ。水分補給もしっかりね。ここは相当辺境だから、だいぶ歩かないとなにもないよ。本当はパスポートさえあれば、上から行けるんだけどね。ごめんね。」
そう言っておばちゃんは天井の遥か上を見やった。認証を通したパスポートがあれば、ビル間を網のように繋ぐ上空の廊下を通れるらしい。わたしがおばちゃんのを使うと一発でアウトだ。わたしも、おばちゃんも。
「いいえ。招かれざる者なんですから。最初からわかってます。おばちゃんのせいじゃないですよ。それに、こんな、食べ物まで・・・。」
麻でできた荒い手提げ鞄には、サンドイッチとパン、それからおにぎりと、ボトルのジュースが二本入っていた。
「ほんとはもっと入れたかったんだけどね。あんまり重すぎてもだめだろう?旅ってものは。」
「・・・ええ。そうです。そうですよ。おばちゃんはもうちょっとやせないと。」
そう言って二人で笑った。別れの時が来たんだ。
「じゃあ、気をつけてね。」
「はい。」
「また来ます。ありがとうございました。」
手提げ鞄を両手に持って、深くお辞儀をした。
最後に小さくおばちゃんに手を振り返して、重い扉を閉じた。どぉんと音がして二人は分断された。
扉の前でまだわたしは突っ立っていた。この扉を隔てておばちゃんがいる。この扉を開けるだけで、また会える。もう一度開けて、ずっとここにいると抱きつこう。さみしさがこみあげてくる。拳をぎゅっと握って耐える。じっと耳を澄ます。何をしているんだろう。今日という日をどう過ごすんだろう。
何も聞こえなかった。わたしは引き返して、とぼとぼと階段を登った。
薄い扉を押すと、再びビルの樹海が現れた。朝日の光の帯とビルの柱が絡まり合ってたくさんの幾何学模様を描いていた。
一歩踏み出した。あたりは静寂に包まれていた。振り返ると、蛍光灯は役目を終えて眠っていた。
店が棲みつくビルを見上げた。ここのどこが田舎なんだろうと思った。中枢区はどんな風になってるんだろう。
最後に蛍光灯と店のある方を眺めて、断ち切るようについと離れた。
「あー。首いてー。」
もう迷うようなことはかろうじてなかった。おばちゃんの店が入っていたあのビルから出ていた上空の細い廊下は、他の廊下と川の流れのように合流し、最後は太い道となって中枢区へ続いていくらしい。そのために何回も見上げてはあのビルから続く空中廊下の軌跡を絶えず確認する必要があった。
首が疲れて痛くなってきたのでしゃがんで柱に首をもたれかけた。お尻に朝特有のひんやりとした冷たさが伝わってくる。朝日の温もりが夜の冷たさを追い出そうとやっきになってあちこちで風が生まれている。
上を見上げたままため息をついた。おばちゃんはあの廊下を辿っていけさえすればいいって言ってたけれど、実際はそれがかなり難しい。奥に入れば入るほど、大小様々な廊下が入り乱れてくる。それもたくさんの階層にわかれて上に下に好き勝手に繋がり合っていて、一つの地点からだと廊下が次にどこに繋がってるのかわからない。だからその辺をうろうろしてようやく次に続く。
「きりがないな。」
それでもこの作業を放り投げることはできなかった。あの廊下が、辿ってきたあの廊下だとわかっているから、方角がわかる。目印を一旦放棄すれば最後、自分がどっちを向いているのかすらわからなくなる。そうなったら、本当におしまいだ。
手提げ鞄からジュースを取り出して、一口飲んだ。ひんやりしたオレンジジュースだった。冷たさが喉を通って体がしゃんとした。
じっと耐えるようにしてそこから延々と廊下を辿った。進めば進むほど集中力を要求された。一度でもぷつりと切れたら、わたしの命もぷつりだ。時々見失っては、いやな汗をかきながらもう一度ゆっくり振り返って丁寧に元の廊下を洗い出した。
気づけば上空はもう廊下が密集していて、空はほんの僅か、所々染みのようにあるだけで、真っ昼間だというのにあたりは暗く、空気は淀んでいた。
辿ってきた廊下の場所を頭に刻みつけて、少し休憩した。
「確かに、あそこは田舎だったな・・・。」
あの店があった辺りではまだきちんと空があった。まさかここまで複雑になっていたなんて。てっきりビルがひしめいているだけだと思っていたのに。空が廊下たちでべたべたに塞がれて、妙にそわそわしてしまう。空がないだけでこんなに不安になるとは思ってもいなかった。下手すると、鬼に追われているときよりも今は恐いかもしれない。
恐い。
「こんなとこじゃ、変なのがいてもおかしくないな・・・。」
落ちに落ちぶれた人間か、それ以外か、その間くらい。
中枢区にはそんなのがいるとおばちゃんは言っていた。
嫌な汗が流れる。
廊下が密集する一方で、ビルの密集具合は心なしか少なくなっているように感じた。通りというものすらなかったあの田舎と比べて、ここはビルとビルの間隔が広く、時には車二台ぶんは通れるくらいの道も見えた。
ふと、明かりがちらっと見えた。吸い込まれるようにして戻って見ると、ビルの壁の十メートルくらいの高さに扉がひっついていた。
「なんであんなとこにあるんだろ?」
行ってみたかったけれどさすがにつるつるの壁を十メートルも登るのは無理だった。
仕方なくあきらめて先に進んだ。
もはや正しい廊下を追えているのか自信がないまま、ただひたすら廊下の流れそのものを追いかけるようになっていた。
中空ではさっきからだんだんと賑やかさが増してきていて、ビルの壁のあちこちに扉を見かけるようになり、またあんなにつるつるぴかぴかの美しい漆黒だったビルの壁や床に、べったりした黒い汚れが目立つようになってきた。
「だんだん汚れてきたな。」
一人嫌な顔をしてあたりを睨んだ。近くのビルの壁を指で削って見てみる。煤のような黒い汚れが指に付着した。
中枢へ向かうほど、全てが新しくなくなっていくような気がした。
「新天地の中枢です。とりあえずそこに行ってみます。」
おばちゃんは少し黙った後、
「不思議だねえ。さっきから、あんたの話を聞いてると、自分がここへ連れてこられたみたいな言い方をするね。はるばる新天地まで来て、どこへ行けばいいかわからないやつなんているもんかね。まあ、無理には聞かないけどさ。変な嘘なんてついてもそれは無駄だよ。」
そう言って悲しそうにまたわたしを見上げた。わたしは何も言わなかった。
おばちゃんは少し俯いた後、決心するようにぐっと顔を上げた。
何を言おうとしているかわたしには、この旅に出たわたしにはわかった。
「あのさ、」
そう言ってわたしを見上げた瞳は、彼女が初めて草原を見たあの少女の瞳と同じだった。外の世界に触れた瞬間の、あの輝き。
「じゃあ、わたし、もう行きますね。」
そう言って振り返らずに白い扉を開けた。
「待ちな。」
一声そう言うと、カウンターからがさがさと音を立てながらこっちにやってきた。さっきの少女はもういなかった。
「これ、大事に食べるんだよ。水分補給もしっかりね。ここは相当辺境だから、だいぶ歩かないとなにもないよ。本当はパスポートさえあれば、上から行けるんだけどね。ごめんね。」
そう言っておばちゃんは天井の遥か上を見やった。認証を通したパスポートがあれば、ビル間を網のように繋ぐ上空の廊下を通れるらしい。わたしがおばちゃんのを使うと一発でアウトだ。わたしも、おばちゃんも。
「いいえ。招かれざる者なんですから。最初からわかってます。おばちゃんのせいじゃないですよ。それに、こんな、食べ物まで・・・。」
麻でできた荒い手提げ鞄には、サンドイッチとパン、それからおにぎりと、ボトルのジュースが二本入っていた。
「ほんとはもっと入れたかったんだけどね。あんまり重すぎてもだめだろう?旅ってものは。」
「・・・ええ。そうです。そうですよ。おばちゃんはもうちょっとやせないと。」
そう言って二人で笑った。別れの時が来たんだ。
「じゃあ、気をつけてね。」
「はい。」
「また来ます。ありがとうございました。」
手提げ鞄を両手に持って、深くお辞儀をした。
最後に小さくおばちゃんに手を振り返して、重い扉を閉じた。どぉんと音がして二人は分断された。
扉の前でまだわたしは突っ立っていた。この扉を隔てておばちゃんがいる。この扉を開けるだけで、また会える。もう一度開けて、ずっとここにいると抱きつこう。さみしさがこみあげてくる。拳をぎゅっと握って耐える。じっと耳を澄ます。何をしているんだろう。今日という日をどう過ごすんだろう。
何も聞こえなかった。わたしは引き返して、とぼとぼと階段を登った。
薄い扉を押すと、再びビルの樹海が現れた。朝日の光の帯とビルの柱が絡まり合ってたくさんの幾何学模様を描いていた。
一歩踏み出した。あたりは静寂に包まれていた。振り返ると、蛍光灯は役目を終えて眠っていた。
店が棲みつくビルを見上げた。ここのどこが田舎なんだろうと思った。中枢区はどんな風になってるんだろう。
最後に蛍光灯と店のある方を眺めて、断ち切るようについと離れた。
「あー。首いてー。」
もう迷うようなことはかろうじてなかった。おばちゃんの店が入っていたあのビルから出ていた上空の細い廊下は、他の廊下と川の流れのように合流し、最後は太い道となって中枢区へ続いていくらしい。そのために何回も見上げてはあのビルから続く空中廊下の軌跡を絶えず確認する必要があった。
首が疲れて痛くなってきたのでしゃがんで柱に首をもたれかけた。お尻に朝特有のひんやりとした冷たさが伝わってくる。朝日の温もりが夜の冷たさを追い出そうとやっきになってあちこちで風が生まれている。
上を見上げたままため息をついた。おばちゃんはあの廊下を辿っていけさえすればいいって言ってたけれど、実際はそれがかなり難しい。奥に入れば入るほど、大小様々な廊下が入り乱れてくる。それもたくさんの階層にわかれて上に下に好き勝手に繋がり合っていて、一つの地点からだと廊下が次にどこに繋がってるのかわからない。だからその辺をうろうろしてようやく次に続く。
「きりがないな。」
それでもこの作業を放り投げることはできなかった。あの廊下が、辿ってきたあの廊下だとわかっているから、方角がわかる。目印を一旦放棄すれば最後、自分がどっちを向いているのかすらわからなくなる。そうなったら、本当におしまいだ。
手提げ鞄からジュースを取り出して、一口飲んだ。ひんやりしたオレンジジュースだった。冷たさが喉を通って体がしゃんとした。
じっと耐えるようにしてそこから延々と廊下を辿った。進めば進むほど集中力を要求された。一度でもぷつりと切れたら、わたしの命もぷつりだ。時々見失っては、いやな汗をかきながらもう一度ゆっくり振り返って丁寧に元の廊下を洗い出した。
気づけば上空はもう廊下が密集していて、空はほんの僅か、所々染みのようにあるだけで、真っ昼間だというのにあたりは暗く、空気は淀んでいた。
辿ってきた廊下の場所を頭に刻みつけて、少し休憩した。
「確かに、あそこは田舎だったな・・・。」
あの店があった辺りではまだきちんと空があった。まさかここまで複雑になっていたなんて。てっきりビルがひしめいているだけだと思っていたのに。空が廊下たちでべたべたに塞がれて、妙にそわそわしてしまう。空がないだけでこんなに不安になるとは思ってもいなかった。下手すると、鬼に追われているときよりも今は恐いかもしれない。
恐い。
「こんなとこじゃ、変なのがいてもおかしくないな・・・。」
落ちに落ちぶれた人間か、それ以外か、その間くらい。
中枢区にはそんなのがいるとおばちゃんは言っていた。
嫌な汗が流れる。
廊下が密集する一方で、ビルの密集具合は心なしか少なくなっているように感じた。通りというものすらなかったあの田舎と比べて、ここはビルとビルの間隔が広く、時には車二台ぶんは通れるくらいの道も見えた。
ふと、明かりがちらっと見えた。吸い込まれるようにして戻って見ると、ビルの壁の十メートルくらいの高さに扉がひっついていた。
「なんであんなとこにあるんだろ?」
行ってみたかったけれどさすがにつるつるの壁を十メートルも登るのは無理だった。
仕方なくあきらめて先に進んだ。
もはや正しい廊下を追えているのか自信がないまま、ただひたすら廊下の流れそのものを追いかけるようになっていた。
中空ではさっきからだんだんと賑やかさが増してきていて、ビルの壁のあちこちに扉を見かけるようになり、またあんなにつるつるぴかぴかの美しい漆黒だったビルの壁や床に、べったりした黒い汚れが目立つようになってきた。
「だんだん汚れてきたな。」
一人嫌な顔をしてあたりを睨んだ。近くのビルの壁を指で削って見てみる。煤のような黒い汚れが指に付着した。
中枢へ向かうほど、全てが新しくなくなっていくような気がした。