新天地へ
 そのままわたしは柔らかい絨毯にひざまずき、不思議そうに振り返った彼の顔を両手で引き寄せた。そして額に唇をつけた。廊下に迷い込んだ風が頬を撫で、ドームの上から降り注ぐ光がわたしたちを包んだ。
「ありがとう。」
 わたしはこのくらいのことしかできなかった。
「あ、ああ、楽しかったよ。あ、そうだ。時間を知れないだろ。この腕時計持っていけ。」
心なしか顔が赤くなっているような気がして、わたしも恥ずかしくなった。受け取った黒い腕時計を俯いたままありがとうと言って着けた。
「また会おう。」そういって、彼は扉を持つ手を離した。
 
 彼は恐ろしいスピードで落ちていく。恐くなってすぐに扉を閉めた。またひとりぼっちになってしまった。
 鍵を締めて、わたしは立ち上がった。落ち着かせるように胸を抑えた。いまだにどきどきする。
 目の前には銀色の機械と、そして遥か先中枢区まで続く廊下が待っていた。
「いよいよだ・・・。」
 そこになにかがある。そう信じて、ここまでやってきんだから。

 パスポートをかざすと、ポンと柔らかい音がした。その他は別段なにも変化はなく、わたしはそのまま機械を通り過ぎた。あまりにも呆気なく許可が降りてしまって拍子抜けしてしまった。
 彼は無事着地できただろうか。
 機械を通った先にはもう絨毯はなく、代わりに黒いゴムのような素材が敷かれていた。そして中央に一人分の幅くらいのレーンがあり、その傍に、梯子を登っている時に見たほの青く光る直線がすうっと奥まで引かれていた。
 レーンの上に乗ると、滑るようにしてゆっくりと床が動き出した。
 だんだん加速していったにも関わらず、ほとんどなにも感じないくらい絶妙な加速だった。ドームの半球に時々嵌められた黒いフレームが驚く速さで通り過ぎてゆく。
 廊下を覆うドームが透明になっていたから、たくさん生えているビルや雲やときおり鳥の群れを見下ろすことができた。
「そりゃあ、いい気になっちゃうな、これ。」
神様が地上を見下ろすとこういう風に見えるんだなと思った。
 しばらくすると、ゆっくりと上昇を始めたのがわかった。もっと早いうちから上昇した方がよかったんじゃないかなと思った。目の前に聳えるそれは、それくらい大きかった。
 こんなに巨大なものは見た事がなかった。今まで見てきたビルが子供のように見える。幅はいままでの何倍あるのだろう。頂上は真上を見上げてもよくわからないほど遠い。
 彼はビルが成長していると言ったけれど一体何年かかったらここまで大きくなれるんだろう。わたしがずっと見つめてきた新天地の漆黒のビルはこいつだったんだろう。
 鬼に追われていた時を思い出した。あの時は新天地がまだまだ遥か遠くにあって絶望したものだけど、それはこの一番大きいビルをずっと見ていたからだった。
「そりゃあ、届かないよ。」
鬼に追われていたあの頃のわたしにそう言った。ああ、全てが遥か遠い昔のことのような気がする。とても永かったなあ。
 気づけば、廊下はものすごい傾きで上昇していた。必死で上がっているけれど、それでもどうあがいても終点に着くまでに衝突しそうだ。
 ビルの壁が目の前に迫ってくる。よく見ると滑らかな表面ではなかった。本当に岩のように所々でごつごつしていて、その窪みや出っ張りにたくさんの鳥が羽めいていた。雲よりも高い高いところにこうして鳥たちが宴を開いているのは不思議な光景だった。彼らも上へ上へと目指すうちにこんな所まで来てしまったんだろうか。限られた場所でしか羽を休める事ができないのに、それでも彼らは楽しそうだった。
 だんだんとスピートが緩まってきた。今やほぼ垂直に登っていた。傾きに従って足下が調整され、のっぺりしていた床が階段上にぎざぎざに伸びていた。振り返ると同じようにずらっと階段が続いていた。
 時計を見ると七時すぎだった。ついさっきまでこの世界を自分一人のものにしていたのに、そうでないことが嫌でも突きつけられたような気がした。あと少しで到着だ。
 そしてとうとう、この時が来た。見上げると分厚いビルの壁が切り抜かれ、真っ暗に口を開けたそこへ廊下が続いていた。まるでビルが廊下を捕食しているようでぞっとした。緩やかなスピードのまま上昇していき、わたしをその口の中へ運んでいった。

 一瞬暗闇になったと思うと次の瞬間には巨大なホールが目の前に現れた。
「わっ。」
急に床が止まりわたしは放り出されるようにして一歩前へ踏み出した。
 廊下の入り口と同じような黒いゴムのような素材に降り立つと、アーチ型のゲートのすぐ下に例の自動改札機があった。後ろからすぐに誰か来そうで慌ててパスポートを取り出して掲げた。入り口と同じようにポンと音を立てて簡単にわたしを中枢区へ入れた。
 ゲートをくぐると、天井まで球体に切り取られた巨大なホールが迎えた。ああ、とうとう来たんだと、胸の底からふわっと興奮が巻き上がった。あのトイレで見つめたあの場所へ、死にそうな思いをして、いろんな人に助けられ、わたしは今立っている。
 ホールは見た事も無いほど巨大だった。おそらくこのビルの幅いっぱいを使って作られたんだろう。反対側にあるゲートがすごく小さく見える。高さも相当あり、会社が一つまるまる入りそうだった。ホールは二階建てになっていて、一階と二階を繋ぐ階段が円の中心付近から斜めにずらっと延びていた。一階にも二階にも、その円の縁にそって今くぐってきたようなゲートがたくさん並び、二階はそのゲートに向かって放射状に廊下が延びていた。このビルの大きさを思い出した。ここは空間が潤沢にあるんだ。
 ホールは全体的に柔らかい銀色に包まれ、床には毛艶のよさそうな銀色の絨毯が敷かれていた。銀色の卵に優しく包まれて、不思議とこんなわたしでも歓迎されているように感じた。
 一階にも二階にも人はまばらにいたけれど、わたしを気にすることもなく、それぞれがリラックスしたようにゆったり歩いていた。
「なんだここ・・・。」
なぜだかとても心地よかった。さっきまでの緊張が一気に解かされていった。こんなことなら言ってくれればよかったのに。そう彼に呟くと、中枢区は誰でも歓迎するような場所だと言っていたのを思い出した。そして、そんな場所で彼が窓を打ち破ってまで逃げ出したことも。
「あぶないあぶない・・・。」
 決して油断しちゃだめだ。この柔らかな銀色も、気分がぼうっとしてくるこのホールも、そう感じさせるよう作られているだけ。ぷるぷると頭をふって靄を吹きはらした。
「さて、どこに行こう。」
そこはすごく重要な問題である気がした。彼はどこに行けなんて一言も言わなかった。なぜならこれはわたしの旅だからだ。それに、どこが終点なのか、わたしですらわかないのだから。
 ぐるりと首を回してみると、不思議なことに気づいた。ここには出口がない。ここに入ってくるゲートはたくさんあるのに、ここから出て行ける場所がない。
 どうやってみんなここから出て行くんだろうと思って、とりあえず二階を見に行ってみることにした。円の中心付近にある階段の傍まで来てみると、階段も、わたしを運んできた廊下と同じようなレーンが敷かれていて、そこに乗ると自動的にわたしを二階まで運んでくれた。
「わっ。」
 しかしこれ、急に止まるところをなんとかして欲しいな。ぞんざいに放り出されているような感覚がする。
 二階は一階よりもすこし小さいフロアになっていた。小さくなった分廊下がここまで延びてくるから、下から見て廊下が放射状に延びてるのが見えるんだな。
 けれど、二階は一階にないものがあった。フロアの中心より少し奥に、絨毯と似たような銀色をしたカウンターらしきものがあった。コーヒーでも一杯頼めそうな雰囲気だったから、近寄ってみると、白いスーツを着た銀色のロボットが突っ立っていた。高さは二メートルくらい、手足はすらりと長く、顔は白いシルクハットに隠れて見えない。
「こんにちは、お嬢さん。ここは初めてですかな。何に致しましょう。」
 ロボットの声は少し内部の金属に反響してエコーがかかっていた。
「ええと、」
そう言ってカウンターを見ると、金属のプレートに文字が刻まれていた。見たこともない文字だった。その横におそらく値段だろう、数字が並んでいた。いくつかがゼロを指していた。彼の言葉を思い出した。
「じゃあ、これ。」
プレートの中段あたりの値段がゼロでないやつを適当に指差した。何か食べたかったから、それが食べ物であることを願った。
「はあい。」
男の声なのかよくわからない妖艶な声で返事をすると、くるりと背を向いて何かを作り出した。
 器用になにかしているようで、あっという間に「どうぞ。」と紙に包まれたなにかを手渡された。ぱっと見はホットドックのようだった。
 するとロボットがじっと見つめているので、「ありがとう。」と言ってみたけれど、何も言わずじっとこちらを見ていた。
「え、なに。」
シルクハットをじっと深く被って疑うようにこちらを見ていた。
「あ、支払いか。はい。」
そう言ってパスポートを掲げると、右腕の白いスーツを巻くって、腕にくっついた長方形のディスプレイをパスポートに近づけた。ポンと再び柔らかい音が鳴った。
「ご利用ありがとうございました。」
彼はそう言うと再びじっと突っ立っていた。
 薄気味悪くてその場をすぐに離れた。
 渡されたものを見ると、どう見てもホットドックのようだった。硬めのパンにウインナーが挟まっている。
 一口食べてみると、味はホットドックだった。確かにホットドックだったけれど、今まで食べたことないほど美味しかった。とにかくジューシーで、そしてくっきりと解像度の高い肉の味だった。パンも最高の焼き加減だった。外はぱりぱりで香ばしく、中はふかふかに柔らかかった。
「はは、おいしい。」
想像を超えたおいしさに打ちのめされていると、ふと視線を感じて振り返った。
 あのロボットがじっとこちらを見ているような気がした。
 ロボットに背を向け、フロアの縁の手すりに手を掛けてぽりぽりと食べながら一階を見下ろした。
 あらゆるゲートから次々といろんな生命体が降りてくる。この世界にはいろんな種族がいるものだとウインナーを齧りながら感心した。わたしのような人みたいなのもいれば、脚が何本もあるもの、草原の鬼を小さくしたみたいなのもいた。色も様々で、ピンクは少なく、緑は多かったけれど、虹の一つや二つは作れそうだった。
 わたしがホットドックを食べながらぼうっとしている間に気づけば本当に人が増えていた。
 そしてそれぞれがみんな、一階でも二階もみんな、同じ方向へ向かっていた。
 みんなが向かうそこは確かにゲートがない場所だった。ぐるりとゲートが並んでいるけれど、一部だけ、二、三、ゲートが抜かれたようにそこだけは何も無く壁だけがあった。
 一階、二階それぞれに同じ場所にあるそこへみんなぞろぞろと集まっていた。
 食べ終わると、ホットドックを包んでいた紙をぐしゃりと潰してポケットに押し込み、みんなの集まっている方へ向かった。
 しばらくみんなと一緒に待っていると、目の前の銀色の壁が音もなく開き、巨大な円筒状の空間が現れた。高さは数メートルありそうで、わたしたちなんか余裕で入れる大きさだった。円筒内には縦すじに太く蒼い光が二本引かれていて、床の方も見た事のある蒼い光の完璧な円が縁取られていた。
 なるほど、あのビルの中にあったやつだ。彼がいずれ乗るだろうと言っていたのは、こういうことだったのか。しかし、あのビルの中にあったものとは、大きさが全然違う。あれは人一人入れるくらいの大きさだったけれど、これは小規模の宇宙船に見えるほどの大きさで、ここにいる全員軽く収まるだろう。
 先頭からぞろぞろと入っていったので、わたしもその中に入っていった。
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