新天地へ
無垢な王子様
「ここは一体どこだと思う?」
小さな子に出すクイズのようだった。何事も無かったように優しい声で突然尋ねられて、なんて答えればいいのかわからなかった。
「ここはね、すごく高い場所なんだ。君みたいなのでも、一応わかるだろ?ここがどれだけ神聖な場所か。」
話しながらさっきまでの優しい表情がみるみる歪んでいった。いまはもう、わたしを憎んでいるような、そんな風に睨んでいた。
ついさっきとは全然違う雰囲気にわたしの可哀想な心はついていけてなかった。急にそんな目で見られて、わたしはよほど悪いことをしてしまったんじゃないかと思い足がすくんでしまった。
「君、さっき仕事があるっていったね。仕事ってなにかな?君なんかに与えられる仕事なんてないよ、ここには。」
「な、なに?」
わたしはまだ信じられなかった。ついさっきまでのわたしたちの、あの音の無い、二人だけの世界がまだ瞼の裏に残っていた。
「さっきのは、ごめんなさい。でも、ちょっと、時間が。」
「時間なんてもうどうだっていいんだよ。君はもう、ばれてしまったんだからね。」
ゆっくりとわたしの方へ近づいてきても逃げることはできなかった。どのみち、ここしか出口はないようだった。
「上まで来てもらう。」
右腕をぐいと掴まれて、わたしはあっけなく拘束された。
宇宙船の扉が音もなく開くと、どんと背中を押して乱暴にわたしをその中へ突き飛ばした。あまりの違いようにわたしはついていけなかった。あの腰に手を添えてくれたことがまだはっきりと思い出せたので、今の出来事とでぐちゃぐちゃに混ざって気分が悪くなった。
彼が入り、「上階まで。」とどこかに言うと蒼い光が紅色に染まった。
ものすごい加速が始まり、わたしは壁に手をついて、押しつぶさんとする力に必死で抗った。
「虫が入った。」
彼は上を向いて誰かに言った。
加速が収まっても、まだ滑るように上昇していた。おそらくものすごいスピードで上がっているに違いない。それなのにもう何分も経っている。どれだけ上がるんだろう。
「どうして、わたしを侵入者だと思うの?パスポートだって、使えたでしょ。」
彼は無言だった。まるでいないかのような振る舞いだ。けれどしばらくしてから、急に口を開いた。
「お前の腕時計。その盤面に、マークが刻まれてるだろう。」
腕時計を近づけてよく見ると、盤面の中央上に、横長の細い線と、その上に小さな樹のようなものが生えているマークが確かにあった。
「そのマークを描いてるところを、隣で見てたんだ。レジストだって、あいつは言った。こんな塔なんて潰れちまえって、広く平らな外の世界に憧れるってな。まあ、そんなクソみたいな考えを持ってるやつはあいつしかいないね。」
もう笑うしかなかった。こんなとてつもなく巨大で複雑な建造物にいて、腕時計の盤面に刻まれた小さなマークなんてものが意味を持つなんて。さすがに彼もわたしも気づけなかったな。
「お前、会ったんだろう。会ったってことは、ここにはいなかったってことだ。なあ、知ってるだろ?飛び降りたの。あいつなら、パスポートくらい朝飯前さ。あと・・・、四時間か。更新の時が楽しみだな。それまで遊ばせてもいいが。」
口に手を当てて本当に楽しそうだ。
「わたしを医務室に連れて行ったのは、どうして?」
馬鹿なわたしはそれでも聞きたかった。まだ何かにすがっていた。わたしの心はまだ、この人に期待していた。さっきの胸のどきどきが、忘れられなくて。せめてあの出来事だけでも、本当かどうか、確かめたかった。
「ああ、あの時はお前がまだ虫だって知らなかったからね。本当に一人の人間の女性だと思ってたんだ。残念だよ。」
「俺をだましやがって。」
そう吐き捨ててそれからは一度もわたしのほうを見はしなかった。
彼の言っていたことが、ようやく分かった気がする。彼が窓から飛び降りるなんて半ば狂気じみた行動をとった理由も、今はちゃんとわかる。辛かったんだねと、異常なのはここだよと、今度はわたしが彼を慰めたい。
ここは、本当にクソだ。
「ねえ、本当にわたしが虫だと思ってるの。」
「さあさあ、あと少しで到着だ。みなさんが今か今かと待ち構えてるから、そこで何でも聞けばいい。」
こいつはそのみなさんと仲良しの相当上の立場にいるのかもしれない。
「頭の中の白いピース。ジグソーパズルのピースみたいなやつ。知ってる?」
「お前、なんでそれを知ってる?」
「おい、停止。」
ずずず、と重力が被さってきて気怠そうに宇宙船は停止した。
「一体どういうことだ?なんで知ってる?外のお前が・・・。いや、ありえない。お前、本当にここに居るのか?まさか、お前なんかが、俺よりも上に居るのか?」
「わたしだけじゃない。彼も、あんたなんかより上に居たんだよ。」
「はは、面白いな、お前。何言ってんだ、全く。」
「わたしは、面白いよ。いま、この状況がね。あんたの人生がもうちょっとで、全部終わっちゃうんだから。今か今かと待ち構えてるのは、誰の味方だろうか?さあ、早く行きましょう。お前があと何分で地に堕ちるか測ってるんだ。」
そうしてわたしは腕時計を見やった。八時二十分だった。小さなマークは相変わらずそこにちゃんと刻まれていた。彼が知り、わたしが歩いてきた世界。そしてここの誰もが知らない世界。
「ついさっきまではわたしも遊びだった。多少発達不足でも、全体として優秀であればいい。わたしを突き飛ばしてもいい。わたしだって同じだ。こうやって下に来てあんたみたいなのを遊びにくるんだからな。」「ただ、彼を侮辱した奴は、わたしたちは許さないことにしてるんだ。」
「お前はもう逃げられない。地に堕ちて済むと思うな。」
わたしはそうやって彼を睨んだ。ポケットの中にある最低限のアクセス権しか持たないパスポートをぎゅっと握りしめた。
「ふん。何の根拠もない。」
「今からその根拠を確かめるために向かうんだろう?だったら早く行こう。」
わたしはため息をついてみて、それから宇宙船の壁に全体重を預けた。もうどうにでもなれ。
「上階へ。」
再び上昇が始まった。ああ、やっぱり意味がなかったな。彼の言ったようにしてみたけれど。ちょっとはうまくいったと思ったのに。
しばらく上昇が続き、何かが千切れたわたしは半分演じた自分になりきっていて、あと何分でこいつが地に堕ちるだろうと時々腕時計を見ては時間を確認していた。
するとくるっと回ってこちらに向き合った。
「彼のことは謝る。申し訳ない。今回ばかりは、見逃して頂きたい。俺は、彼の技術力に嫉妬してたんだ。本当は、尊敬してる。」
紅い光に照らされた瞳は微かに潤んでいるのか、てらてらと光っていた。わたしはその瞳を目にしてうんざりした。
「ああ、わかったわかった。もういいから出て行け。」
本当にそう思ったので手をひらひらさせてあっちへ行けとした。
「止め。」
がこんと速度が落ちたと同時に紅い光がもとの蒼い光に転換した。また重力に押されてじりじりと停止し、扉が開いた。
「本当に、僕は、彼が憧れだったんです。いま、はっきりわかりました。僕は・・・。」
わたしはもういいというようにまた手をひらひらと振った。彼は子犬のような顔をしたまま従順にどこかへ行った。
「え・・・?」
宇宙船の扉が開いたまま、わたしは呆然と立ち尽くした。
宇宙船はなにも返さずただひたすら口を開けていた。
小さな子に出すクイズのようだった。何事も無かったように優しい声で突然尋ねられて、なんて答えればいいのかわからなかった。
「ここはね、すごく高い場所なんだ。君みたいなのでも、一応わかるだろ?ここがどれだけ神聖な場所か。」
話しながらさっきまでの優しい表情がみるみる歪んでいった。いまはもう、わたしを憎んでいるような、そんな風に睨んでいた。
ついさっきとは全然違う雰囲気にわたしの可哀想な心はついていけてなかった。急にそんな目で見られて、わたしはよほど悪いことをしてしまったんじゃないかと思い足がすくんでしまった。
「君、さっき仕事があるっていったね。仕事ってなにかな?君なんかに与えられる仕事なんてないよ、ここには。」
「な、なに?」
わたしはまだ信じられなかった。ついさっきまでのわたしたちの、あの音の無い、二人だけの世界がまだ瞼の裏に残っていた。
「さっきのは、ごめんなさい。でも、ちょっと、時間が。」
「時間なんてもうどうだっていいんだよ。君はもう、ばれてしまったんだからね。」
ゆっくりとわたしの方へ近づいてきても逃げることはできなかった。どのみち、ここしか出口はないようだった。
「上まで来てもらう。」
右腕をぐいと掴まれて、わたしはあっけなく拘束された。
宇宙船の扉が音もなく開くと、どんと背中を押して乱暴にわたしをその中へ突き飛ばした。あまりの違いようにわたしはついていけなかった。あの腰に手を添えてくれたことがまだはっきりと思い出せたので、今の出来事とでぐちゃぐちゃに混ざって気分が悪くなった。
彼が入り、「上階まで。」とどこかに言うと蒼い光が紅色に染まった。
ものすごい加速が始まり、わたしは壁に手をついて、押しつぶさんとする力に必死で抗った。
「虫が入った。」
彼は上を向いて誰かに言った。
加速が収まっても、まだ滑るように上昇していた。おそらくものすごいスピードで上がっているに違いない。それなのにもう何分も経っている。どれだけ上がるんだろう。
「どうして、わたしを侵入者だと思うの?パスポートだって、使えたでしょ。」
彼は無言だった。まるでいないかのような振る舞いだ。けれどしばらくしてから、急に口を開いた。
「お前の腕時計。その盤面に、マークが刻まれてるだろう。」
腕時計を近づけてよく見ると、盤面の中央上に、横長の細い線と、その上に小さな樹のようなものが生えているマークが確かにあった。
「そのマークを描いてるところを、隣で見てたんだ。レジストだって、あいつは言った。こんな塔なんて潰れちまえって、広く平らな外の世界に憧れるってな。まあ、そんなクソみたいな考えを持ってるやつはあいつしかいないね。」
もう笑うしかなかった。こんなとてつもなく巨大で複雑な建造物にいて、腕時計の盤面に刻まれた小さなマークなんてものが意味を持つなんて。さすがに彼もわたしも気づけなかったな。
「お前、会ったんだろう。会ったってことは、ここにはいなかったってことだ。なあ、知ってるだろ?飛び降りたの。あいつなら、パスポートくらい朝飯前さ。あと・・・、四時間か。更新の時が楽しみだな。それまで遊ばせてもいいが。」
口に手を当てて本当に楽しそうだ。
「わたしを医務室に連れて行ったのは、どうして?」
馬鹿なわたしはそれでも聞きたかった。まだ何かにすがっていた。わたしの心はまだ、この人に期待していた。さっきの胸のどきどきが、忘れられなくて。せめてあの出来事だけでも、本当かどうか、確かめたかった。
「ああ、あの時はお前がまだ虫だって知らなかったからね。本当に一人の人間の女性だと思ってたんだ。残念だよ。」
「俺をだましやがって。」
そう吐き捨ててそれからは一度もわたしのほうを見はしなかった。
彼の言っていたことが、ようやく分かった気がする。彼が窓から飛び降りるなんて半ば狂気じみた行動をとった理由も、今はちゃんとわかる。辛かったんだねと、異常なのはここだよと、今度はわたしが彼を慰めたい。
ここは、本当にクソだ。
「ねえ、本当にわたしが虫だと思ってるの。」
「さあさあ、あと少しで到着だ。みなさんが今か今かと待ち構えてるから、そこで何でも聞けばいい。」
こいつはそのみなさんと仲良しの相当上の立場にいるのかもしれない。
「頭の中の白いピース。ジグソーパズルのピースみたいなやつ。知ってる?」
「お前、なんでそれを知ってる?」
「おい、停止。」
ずずず、と重力が被さってきて気怠そうに宇宙船は停止した。
「一体どういうことだ?なんで知ってる?外のお前が・・・。いや、ありえない。お前、本当にここに居るのか?まさか、お前なんかが、俺よりも上に居るのか?」
「わたしだけじゃない。彼も、あんたなんかより上に居たんだよ。」
「はは、面白いな、お前。何言ってんだ、全く。」
「わたしは、面白いよ。いま、この状況がね。あんたの人生がもうちょっとで、全部終わっちゃうんだから。今か今かと待ち構えてるのは、誰の味方だろうか?さあ、早く行きましょう。お前があと何分で地に堕ちるか測ってるんだ。」
そうしてわたしは腕時計を見やった。八時二十分だった。小さなマークは相変わらずそこにちゃんと刻まれていた。彼が知り、わたしが歩いてきた世界。そしてここの誰もが知らない世界。
「ついさっきまではわたしも遊びだった。多少発達不足でも、全体として優秀であればいい。わたしを突き飛ばしてもいい。わたしだって同じだ。こうやって下に来てあんたみたいなのを遊びにくるんだからな。」「ただ、彼を侮辱した奴は、わたしたちは許さないことにしてるんだ。」
「お前はもう逃げられない。地に堕ちて済むと思うな。」
わたしはそうやって彼を睨んだ。ポケットの中にある最低限のアクセス権しか持たないパスポートをぎゅっと握りしめた。
「ふん。何の根拠もない。」
「今からその根拠を確かめるために向かうんだろう?だったら早く行こう。」
わたしはため息をついてみて、それから宇宙船の壁に全体重を預けた。もうどうにでもなれ。
「上階へ。」
再び上昇が始まった。ああ、やっぱり意味がなかったな。彼の言ったようにしてみたけれど。ちょっとはうまくいったと思ったのに。
しばらく上昇が続き、何かが千切れたわたしは半分演じた自分になりきっていて、あと何分でこいつが地に堕ちるだろうと時々腕時計を見ては時間を確認していた。
するとくるっと回ってこちらに向き合った。
「彼のことは謝る。申し訳ない。今回ばかりは、見逃して頂きたい。俺は、彼の技術力に嫉妬してたんだ。本当は、尊敬してる。」
紅い光に照らされた瞳は微かに潤んでいるのか、てらてらと光っていた。わたしはその瞳を目にしてうんざりした。
「ああ、わかったわかった。もういいから出て行け。」
本当にそう思ったので手をひらひらさせてあっちへ行けとした。
「止め。」
がこんと速度が落ちたと同時に紅い光がもとの蒼い光に転換した。また重力に押されてじりじりと停止し、扉が開いた。
「本当に、僕は、彼が憧れだったんです。いま、はっきりわかりました。僕は・・・。」
わたしはもういいというようにまた手をひらひらと振った。彼は子犬のような顔をしたまま従順にどこかへ行った。
「え・・・?」
宇宙船の扉が開いたまま、わたしは呆然と立ち尽くした。
宇宙船はなにも返さずただひたすら口を開けていた。