新天地へ
一滴の疑問

 体をゆさゆさと揺らされて目が覚めた。
「おい、そろそろ起きなよ。」
それだけ言うとまたカウンターへ戻っていった。さすがに寝過ぎて怒ってるのかな。背中を丸めてゆっくりと立ち上がった。
 カウンターに例のサンドイッチとオレンジジュースが置かれていた。目を擦りながらゆっくりと向かい、
「何度もすみません。もう出て行きます。」
と半分夢の中で呟いた。
「出て行くったって、どこに行こうって?このへんのこと、なんにも知りゃしないのに。」
おばちゃんはどうやら機嫌が悪いのか怒っているようだった。さすがに人の家で自堕落すぎたかな。
 わたしはそれに答えられなかった。はい・・・と曖昧に返してサンドイッチに手をつけた。
 食べ終わるまでお店は静かだった。聞きたい事がたくさんあったし、これからのことも相談したかったけれど、それは向こうも同じことだった。
「新天地で、死ぬくらい危険なことってありますか?」
 サンドイッチを食べ終わってジュースを飲み干して、口の中がようやく何も無くなった時に、わたしから口を開いた。
「上にいるときは大丈夫だけど、地上付近は危ないよ。ここらの辺境はまだなにもないけど、中枢区はなにがいるかわかったもんじゃない。」
吐き捨てるようにそういった。
「なにがいるかって、なにがいるんですか?」
わたしの脳裏にあの鬼がいた。
「落ちに落ちぶれた人間か、それ以外か、その間くらいさ。」
そう言ってはじめてこっちを見てにやりと笑った。どこまでが冗談なのか分からない。
 魑魅魍魎話のついでに、わたしも話す事にした。まだお互い探り合っている状態での会話は等価交換で行われる。
「ここのもっと端っこに、草原があるのは知ってますか?」
「まあ・・・、一応は。」
やっぱりなにかあそこがマズイことを知ってるんだ。
「行ったことあります?」
しばらく考えてから、いや、ないねと答えた。
「小さい頃、本当にぎりぎりの縁が見えるところまでは行った事があるよ。それでも、周りの子たちには大層驚かれたよ。度胸試しみたいなもんなんだ。あそこは。あれ以来、みんなわたしを見る目が変わった。それぐらいのことなんだ。それでも、この森の、ビルの森の外には出れなかった。ああ、懐かしいなあ。あの日から、私の人生が変わった気がする。」
「どうして、危険だって分かってたんですか?」
「まあ、言い伝えというか、なんと言うか。中枢区の幽霊話みたいな眉唾もんさ。草原に一歩でも入るとなにかがやってくるって。それでも未だにあそこへは向かえないね。それはこの辺のみんなそうなんじゃないかな。大人になってもまだあの頃の恐怖がこびりついてるんだよ。」
やっぱり、鬼のことは知らないんだ。
「わたしは、その草原を渡ってきました。」
おばちゃんの目を見て言った。この話がまた、この人の人生を変えるかもしれないと思いながら。
「そこに、なにがいたか、知りたいですか?」
おばちゃんは天井を見上げて軽く笑った。
「人間ってのは恐ろしいもんでねえ。あの草原を見たとき、ちびりそうに恐かった。なのに、あの時の光景が忘れられないんだ。いまでも鮮明に思い出せる。なぜって、わくわくしたからだよ。恐いけど、それでも何があるか、胸が高鳴る。いま、あんたと話しながら、あの日の光景が目に映ってるんだ。」
「それで、今日までずっと思ってたんだよ。あそこには何がいるのかって。だから、見たんなら、教えてちょうだい。」
 そうしてわたしは鬼のことを話した。鬼の詳細なディティールも、鬼の餌場も、掴まれたことも、パンプスのことも。
「どうりで裸足だったわけだ。最初は、誰かに拉致されて、最後に草原に放り投げられたのかと思ったよ。だから何も聞かなかったわけだけど、まあ、どっちがよかったのか、わからんね。」
そう言って屈託なく笑った。つられてわたしも笑った。
「なら、その靴はあの草原に転がってるのかい?」
「ええ・・・、そうですね。鬼が拾ったりしてない限り。最後振り返った時は寂しく転がっていました。」
「そうかい・・・。」
と呟いて暫くの間お互い黙りこくった。
 話してみてわかったのは、おばちゃんもわたしと同じだということ。この広い世界の、すごく小さなところで生きてきた。わたしが新天地に興味を持たなかったように、おばちゃんも草原の向こうを気にしない。新天地の中枢の方も聞いた事くらいしかないようだった。
 それは不思議なことではなかった。わたしの隣に住んでいる人も、ここの近所の人も、同じようなものだろうから。
「はて・・・。」
 そう言っておばちゃんは静かに黙り込んだ。今まさにおばちゃんの何かが開かれようとしているのがわかった。重く錆びた、閉ざされてきたなにかが、今轟音を立ててゆっくりと開いている。
「じゃあ、」おばちゃんの視線が宙を漂う。
「じゃあ、あんたが来た、草原の向こうって?あんたどっから来たんだい?」
 おばちゃんはわたしにではなく自分に驚いていた。なぜ草原の向こう側を気にしなかったんだろう?少し考えたら疑問に思うはずなのに、と。
 新天地に向かいだした、あの日のわたしと同じだ。
「草原の向こう側には、ここの何倍も広い街が延々と広がってます。ここを囲むように。延々とって言っても、もしかしたらそれも、たぶん違うと思いますけど。ここと同じような人間がもっともっといます。たくさん建物もあります。でも真っ黒じゃないですよ。いろんな色のいろんな建物があります。ここよりももっと低いけど。わたしはそこから来たんです。ある日急に興味が湧いて。新天地に。」
白いピースのことについては伏せた。あまりにも現実味のない話をすると話全体を疑われかねない。言いながらでも確かに、あのピースは湧いて出てくる感じだと思った。
 おばちゃんはしばらくの間黙っていた。
「あんたにはこれがない。」
そう言ってさっきからうねうねと動き続ける自分の触手を指差した。じっと見ていられなくて俯いて「はい」と言った。
「草原のすぐ向こうには、正確には工事現場があるんですが、そこの男にはありました。でも、わたしの住んでいるところはなかったですね。わたしもそうですけど。だから、草原が全ての境界ってわけでもないのかも。」
「ふーん・・・。」
「気持ち悪い?」
「いえ。」
「ただ?」
「まだ慣れてはないです。」
「そうね。」
と言って笑った。話している間にずいぶん老けたような気がした。元気がみるみるうちに溶け出していったようだった。
「ちょっと、いろんなことをいっぺんに聞いてしまって、混乱してるね。小さい頃から、これがついてたからね。あんたの顔を見たとき、こっちもびっくりしたよ。そんな触手のないつるつるの顔、初めて見たからね。ないってことが考えられなかったんだ・・・。どうしてわたしは、あの草原の向こうがどうなってるのか、考えもしなかったんだろう。せいぜい草原にいるなにかを考えるだけで、不思議と興味すら持たなかった。そうなると、他にもいろいろ知らないことがあるね。いまたくさんそれが湧いてきてるよ。何も知らない自分にいまびっくりしてる。」

 それから数時間くらい、お互いの話をした。それぞれの場所で生きる、それぞれの人生のはなしだった。どちらも、自分のすぐ周りのことのはなしばかりだった。
「さて、そろそろ行かないと。」
おばちゃんは口をつぐんだ。あたりにさあっと静けさが広がった。わたしはカウンターの椅子を引いて立ち上がった。からからとした渇いた音だけが響いた。もう行ってしまうの?と問いたげにおばちゃんはわたしを見つめた。換気扇近くの小窓からぱりぱりした明るい光が漏れだしていた。もう、ここにいる必要が無くなった気がした。
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