彼は誰時のブルース
時折俺を助けてくれる友人は、父親が俺の父親の部下だったりする。
もちろんこの団地に住む家族の父親は皆、俺の父より役職が下だ。例外なく、田之倉の家もだ。
「おはよう」
その日の朝、朝食も食べずにランドセルを引っ掴むと、俺はエレベーターに乗り込んだ。1階に着いて箱から出てすぐ、そう声をかけられた。
田之倉だった。
「っ」
びっくりして、田之倉を凝視する。下を向いている彼女を、しばらく見続けた。
田之倉は学校では話さないのに、団地の中ではすれ違うたびに向こうから、いつも積極的に挨拶をしてきた。それがどうしてなのか分からなかったが、挨拶にはいつも会釈で返していた。
母親の顔が浮かぶ。
沸々と感情が込み上げては、溢れる寸前だった。
(ならいっそ、本当に…田之倉と仲良くしてやろうか)
と思ったが半ば泣き目になっていた俺は、声を出したら震えてしまう、と思って返事が出来なかった。家でなにかあったのか、なんて勘付かれたくなくて、沈黙が続く。
返事のない俺に、ずっと下を向いていた田之倉は顔を上げた。
その間、1秒もない。
俺の方を一瞥した後、前を歩いていく。
「……………」
嫌悪感剥き出しの顔だった。
涙跡でぐちゃぐちゃの俺の顔を見ても、気づきもしなかった。というか、はなから俺の顔なんか見てなかった。
挨拶してくるのは、好意ではない。気づいていたけど、いざその敵意と無関心を目の前にして腹が底冷えするのを感じた。
田之倉は初対面の時から、俺を嫌っていた。母に口すっぱく言われなくても、そんな彼女の露骨な態度に、「仕方ない」と割り切っていた。そんな関係は田之倉くらいだと、そう思っていた。
でも、違うかもしれない。
ずっと信頼してきた友人と呼んできた彼らは、本当に俺の友人なのだろうか。
周りにいる友人の顔を思い返す。怖くなった。本当に彼らは俺を友と思ってくれているんだろうか。
俺は。
「…違う」
建前や損得勘定で、人を選ぶ生き方なんてしない。母親のように。田之倉のように。
「俺は…!!」
涙を拭った後、握りしめた拳を広げた。力み過ぎた手のひらには、爪の跡が赤く残っていた。
・
誰かが俺を褒め讃えたとしても、絶対信じない。ただそれが、あの日決めた生き方に見合っているのか分からない。
固定観念や常識はあっという間に覆る。それでも。自分の前途はまだ明るいと、なんのリスクもなく信じられた、あの頃の方が、まだましだった。