彼は誰時のブルース


 時折俺を助けてくれる友人は、父親が俺の父親の部下だったりする。

 もちろんこの団地に住む家族の父親は皆、俺の父より役職が下だ。例外なく、田之倉の家もだ。


「おはよう」


 その日の朝、朝食も食べずにランドセルを引っ掴むと、俺はエレベーターに乗り込んだ。1階に着いて箱から出てすぐ、そう声をかけられた。

 田之倉だった。


「っ」

 びっくりして、田之倉を凝視する。下を向いている彼女を、しばらく見続けた。

 田之倉は学校では話さないのに、団地の中ではすれ違うたびに向こうから、いつも積極的に挨拶をしてきた。それがどうしてなのか分からなかったが、挨拶にはいつも会釈で返していた。


 母親の顔が浮かぶ。

 沸々と感情が込み上げては、溢れる寸前だった。


(ならいっそ、本当に…田之倉と仲良くしてやろうか)


と思ったが半ば泣き目になっていた俺は、声を出したら震えてしまう、と思って返事が出来なかった。家でなにかあったのか、なんて勘付かれたくなくて、沈黙が続く。


 返事のない俺に、ずっと下を向いていた田之倉は顔を上げた。

 その間、1秒もない。
 俺の方を一瞥した後、前を歩いていく。


「……………」


 嫌悪感剥き出しの顔だった。


 涙跡でぐちゃぐちゃの俺の顔を見ても、気づきもしなかった。というか、はなから俺の顔なんか見てなかった。

 挨拶してくるのは、好意ではない。気づいていたけど、いざその敵意と無関心を目の前にして腹が底冷えするのを感じた。

 田之倉は初対面の時から、俺を嫌っていた。母に口すっぱく言われなくても、そんな彼女の露骨な態度に、「仕方ない」と割り切っていた。そんな関係は田之倉くらいだと、そう思っていた。

 でも、違うかもしれない。

 ずっと信頼してきた友人と呼んできた彼らは、本当に俺の友人なのだろうか。


 周りにいる友人の顔を思い返す。怖くなった。本当に彼らは俺を友と思ってくれているんだろうか。

 俺は。


「…違う」


 建前や損得勘定で、人を選ぶ生き方なんてしない。母親のように。田之倉のように。


「俺は…!!」


 涙を拭った後、握りしめた拳を広げた。力み過ぎた手のひらには、爪の跡が赤く残っていた。






 誰かが俺を褒め讃えたとしても、絶対信じない。ただそれが、あの日決めた生き方に見合っているのか分からない。


 固定観念や常識はあっという間に覆る。それでも。自分の前途はまだ明るいと、なんのリスクもなく信じられた、あの頃の方が、まだましだった。





< 13 / 49 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop