彼は誰時のブルース
ここは団地の中じゃない。団地の人がいるときは例外として、団地以外の場所では絶対に話しかけない。無論、向こうは一ミリも顔を合わせない。
それがなんの心境の変化か、ごく最近彼は私に話しかけてきた。
まあいい。私はこれまで通り、無視。
傘を深く構え、足元を見ながらなるべく歩く音を出さず、水溜りを避けて歩く。自販機を通り過ぎ、傘を元の高さに戻した。はずだった。
「田之倉」
雨音の中、一際目立つ低い声。またしても彼は、私に話しかけてきた。
無視を決め込もうとした数秒間を、まさか気付いてないよな。恐る恐る肩越しに彼を見る。今初めて貴方を見ましたよ感を醸し出しながら。だが自販機前になぜか宇野がいない。
「なに突っ立ってんの」
「っ…うわっ」
いつの間にか彼は私のすぐ近く、左隣にいた。暗い中だけど住宅街の灯りで、宇野が不思議そうな顔で私を見ていた。
「何、大声あげて」
「いえ、別に…」
すると宇野は、私を覗き込むように近付くと、「ふはっ」とそれは爽やかな声で笑い声をあげた。
私はびっくりして、その顔をしばらく眺めた。暗くてよくは見えないけど、この人、笑うんだ、と思った。
「そんな赤いTシャツ、よく売ってたな」
「…え」
「どこで買ったんだ?」
自分の着るシャツを見下ろす。赤く真ん中に"満腹"とプリントされたTシャツだ。
今更ながら段々と恥ずかしくなってきた。これは確か、母さんが友達と旅行に行った時に旅館で買ってきたお土産だ。
「これは私が買ったのではなく母が…」
「変わった趣味の服だな」
サイッアクだ。さっさと通り過ぎればよかった。スウェットのチャックを締める。恥ずかしい。洒落っ気なんて、最寄り駅で買い物するのに必要あるか。
いろいろ飲み込んで適当な言葉を探す。
「部屋着なんで、最寄駅に出かけるくらいなら部屋着でいいと思った次第で…」