彼は誰時のブルース
「立って」
時間が止まったような沈黙の後、宇野が低い声でうずくまった私に声をかける。
出来れば、立ち去って欲しい。罵倒して構わない。蹴られたって構わないから。もう、もう。構わないで。
私如きが何を口走った。混乱した頭では、立つことすら覚束ない。
「濡れるから」
震える。私は本当に、身体中震えていた。寒さのせいじゃない。こんなにも、感情って身体に現れてしまうのか。
感情が抑えられないって、指摘された通りじゃないか。
「頼むよ、なあ」
ガチャンと、近くで缶がぶつかり合う音が聞こえる。宇野がコーラの缶をゴミ箱に捨てたんだろう。それにも大袈裟に私の肩は、痙攣をおこした。
頭に浮かぶ言葉が全て伝わっているなら、今私がぶちまけた言葉なんて、とうに見透かしていただろう。燃えたぎるこの劣等感を。そんな感情は下らない。眼前にある事実は何も変わらない。せめて飲み込め。抑え込め。分かっている。分かっている。
けど。時々感情が波立つ。この団地の人は。両親は。私は。一体いつまで、こんな肩身の狭い思いをし続けなければならないの。
馬鹿らしい、くだらない、こんな事で。
顔も上げられない自分が、大嫌いだ。
雨音は消えない。
その雨音が近くなったり遠くなったり。
でも一向に、なぜか雨は私の身体に打ち付けてこないことに気付いた。
「田之倉」
私の名前を呼んだ宇野は、ふいにしゃがみ込んだ。
開いた私の傘を差し出して。覗き込むように、驚いて顔を上げた私に顔を近づける。
「泣いてる?」
彼の左手が私の髪に触れる。瞬間、私は跳ね除けるように後ずさって尻もちをついた。
「ごめん、髪、口入りかけてたから…つい」
「っ…ご」
お尻をおさえて立ち上がる。宇野が立ち上がる私を見上げた。彼の視線から逃げるように、もたつく足で一歩後ずさる。もう、とにかく今の状況に耐えられなかった。
「ごめんなさい!」
彼から2、3歩後ずさり、前を向き直って走り出す。
雨が全身を打ち付ける。バシャバシャと水溜りの上を走る。靴に水がしみ込んで素足を濡らした。
途中、おい!という声が聞こえたけれど、私は止まらず走り続けた。
突き刺すように、雨粒が全身を濡らした。
団地の入り口から階段を駆け上り、自分家のドアの前で、ポケットに入った鍵を取り出してガチャガチャ乱暴に開ける。噛み合わなくて、手が震えて、うまく開かない。
「なに、なに?つむぎ?」
ドアを開けた母さんの間をすり抜けて、洗面所に駆け込む。ずるずると、ドアを伝って、へたりと座り込み。
顔を覆った。
「…サイッアク…」
何度も呟く。雨がまだ体を打ち付けている気がした。心臓の振動が身体中を鳴らす。
思考回路が上手く回らない。
逃げ帰ってしまった。
ここまで、ここまで自分が臆病だとは思わなかった。