彼は誰時のブルース
「くれぐれも、お行儀よくするのよ」
母はその日バイトがあったので、私に何度もそう言うと、先に出掛けてしまった。
私はお気に入りのヘアゴムで二つ結びにすると、威勢よく玄関を飛び出した。
チン、と音を立ててエレベーターは最上階に着く。
宇野さん宅は右端で、いつも見る私たち一家がある3階とドアの外観はさほど変わらなかった。
ドキドキしながら、インターフォンを鳴らす。すぐにドアが開いて、宇野さんの奥様が笑顔で迎えた。
広い玄関の棚には、色とりどりの花が飾られている。造花ではない。花の匂いが鼻を通った。
「いらっしゃい」
「はじめまして、田之倉紬(たのくらつむぎ)です」
「つむぎちゃんね、入って」
宇野さんの奥様は、薄い顔立ちの綺麗な人だった。何度か姿を見かけたことはあったけど、面と向かって話したのは、その日が初めてだった。
「つむぎちゃんは何歳なの?」
「7才です」
「あら、うちの泰斗と同い年だわ。仲良くしてあげてね」
部屋の中はうちの倍は広かった。同じ社宅なのに、こうも違うのかと今なら思う。玄関と同じように、至る所に花やインテリアが飾る。モデルルームのようだった。
リビングにはもう、子供達が10人くらい集まっていた。みんなでウノをしたりお喋りしたり、思い思いに遊んでいる。
奥様は楽しんでってね、と部屋を出てキッチンに向かってしまった。
どこに座れば良いのか分からなくて、部屋の端の方に正座をして座った。
私はうまく、その輪の中に入れなかった。唯一同じ階の蓮くんは、ゲームに夢中で私に気付いてくれなかった。
「さあ、みんなお菓子よ」
奥様が、部屋の真ん中の大きいテーブルに皿を置いた。
その上にはお菓子がたくさんのっている。そのほとんどはスナック菓子で、手作りのものはなかった。
はーい、と子供達はテーブルに群がり、コップをそれぞれ持ちはじめた。
それに習い私も立ち上がって、空いていた隙間に座り、コップに手を伸ばす。
手が当たる。
マニキュアの手。
奥様の手。
「はい、ヒロくん」
私が取りかけた水色のコップは、奥様が手にして、彼女の右隣に座っていた男の子に渡った。
「………」
今。払いのけた?
奥様を見ても、彼女は子供達にジュースをコップに注いでいて、私には目もくれなかった。