彼は誰時のブルース
「…なんでしょう」
勢いよく出てきたはいいものの、顔を合わせられず下を向いた。
蚊みたいな声だ。情けない。あぁ、と彼は視線を下にする。彼の右手に持っているものはデパートの紙袋だった。宇野は私にその紙袋を差し出した。
「どうぞ」
「…え?」
なに、これ。
「聞いてない?」
「…はい?」
宇野がきょとんとした顔になったが、どおりで、と呟いた。
「まあいいか」
ほら、と紙袋を近付ける。思わず後ずさった。彼は、仕方ないとばかりに袋を広げて中身を私に見せた。
「弁当だよ。1限前は俺、クラス移動だったから渡せなかったんだ」
「…えと」
「田之倉のだよ、俺、田之倉の母親に頼まれたんだ」
「えぇ?」
まさか。あり得ない。あり得ない。恐る恐るその紙袋を受け取って、中をのぞいた。確かに中身は巾着で包んだ私の弁当箱だ。
信じられない。母さんがわざわざ弁当を渡してくれなんて、宇野に頼むなんて。そういえば今日は、弁当を作ってくれる日だった。でも、まさか。団地の上下関係にいつもビクビクしてる母さんが、宇野に頼むわけがない。信じられない。
「いつうちの母親が」と言って顔を上げた。その時、教室から七海が見ていることに気づいた。
「朝だよ、出掛けで…偶然会ったんだ、それで」
「とっ、とりあえず宇野くんの教室まで行きます!」
言葉を遮り、彼の腕を引っ張った。
「おい、俺の校舎違う、逆…」
宇野の声を無視して、人の少ない突き当たりの階段を目指して進む。
「宇野くんと仲良かったの?つむぎは秘密主義だね」
七海から、嫌味を言われる気がした。考え過ぎかもしれないけど。
廊下突き当たりの階段前まで来ると、引っ張った腕を離した。