恋風吹く春、朔月に眠る君
「ざっくり、かなり大雑把に言いますと、都合の悪いことだけ覚えてない、ということですね」
都合の悪いことだけ覚えてない......? それはそんなに簡単にぶっちゃけて良かったのだろうか。何とも言えない表情になる。
「生前の思い出があまりいい思い出ではないのでしょうね。幽霊になったのもそれが原因かもしれません」
困惑する私を余所に曇りのない澄み切った笑顔の浮かべる姿に、余計にどうしていいか分からない。
「いきなり暗い話をしすぎましたね。でも、私はこの幽霊人生を楽しんでますからね。悲しいとは思ってません。
思い出せたなら幸せなこともきっとあるのでしょうけど、思い出せない方が幸せなこともきっとあるのでしょう」
確かに幽霊になってまだ現世にいるのは、何かこの世に未練があるのかもしれない。良い思い出ではない生前の記憶にそれがあるとして思い出してしまったら、どうなるのだろう。木花はこの穏やかな表情で笑うことはなくなってしまうのかな。
でも、生前の記憶を思い出せなければ、この世にある未練も思い出せないということ。そうなると、いつまでも成仏することはないってことじゃないのかな。
私は何も言えなくなってしまって、それ以上聞くことが出来なかった。それを全て分かっているかのように、木花は柔らかく微笑む。
「さあ、そろそろ部活の時間でしょう。早く行かないと遅れてしまいますよ」
雪のように白い手が指さす先には校舎にかかる時計。それを見ると部活の時間が近いことを告げていた。
「ほんとだ。早く行かないと。またね、木花」
「随分と私のことを気に入ってくれたのですね」
「あったりまえでしょー。折角仲良くなったんだから」
「それだけ素直だと、悪い人に騙されないか心配になりますね」
相変わらずの口の悪さに苦笑する。流石にわたしだって傷つかないわけじゃない。唇を尖らせて、文句の一つでも返そうとした時、躊躇いがちに続いた言葉は驚くべきものだった。
「......でも、そうですね。また来てくれるのを楽しみにしています」
少しだけ照れたように笑う顔が可愛かった。きっと、生きてたらその綺麗な頬を薄いピンクに染めていたのだろう。目の前の彼女は血色のない顔でどこか精巧に作られた人形のような気がしていたけど、その時だけは同い年くらいの女の子が笑っているような気がした。
楽しみといってもらえた。話していて楽しいと思うのは私だけじゃないと思ってみてもいいのかもしれない。
「はーい、じゃあね」
私は小さく手を振ってから、スポーツバッグに手を掛けて部室に向かって走った。