恋風吹く春、朔月に眠る君
聞いたことのない音楽だった。朔良の音楽じゃないみたいで怖かった。あの音楽は楓に向けられたものじゃないかと考えると怖かった。どうしていいのか分からなかった。
でも、私はどんなに追い込まれても無様にも繕うことができるらしい。昨日は暫くして涙が流れた跡を水道の水で軽く消してハンカチで拭った後、何もなかったかのように音楽室に戻った。
戻るとピアノの音が聞こえてこなくてほっとした。いつもより30分以上も遅かったのに怒られなかった。ほっとしたような顔でいいよと許されたそれが一番の絶望だということを彼は知らない。
「不味い」
いつもの無表情を張り付けて、静かだけどはっきりとした声が私に向けられた。その瞬間、思考が現実へと戻ってくる。
不味いと言い放った割には、スプーンに乗った一欠片のケーキを口へ運び、もぐもぐと口を動かす。そして、また一口、また一口とブラックホールのようにケーキは吸い込まれていって、なくなってしまった。
その光景を眺めていた私は眉間に皺を寄せる。
「その勢いで食べておいて、不味いはないでしょ。ケーキ好きなくせに」
今日は杏子と一緒にケーキバイキングに来た。甘いものが好きな杏子と一緒に来たいねと前々から話していたケーキの美味しいお店だ。勿論、今、私が食べてるガトーショコラもチョコが濃厚で美味しい。
「ケーキじゃないよ。双葉のさっきの表情がケーキを不味くするんだよ」
少しの苛立ちを込めた言い方にハッとする。確かに、さっきから私は上の空でいたかもしれない。昨日の出来事が鮮明に焼き残っていて、目を閉じる度にその瞬間へ引き戻される。そのせいで昨日は眠れなかった。
分かっていたことだったのに、突きつけられるとこんなに自分で処理できなくなるなんて思わなかった。
多分、杏子と会ってからもずっとそうだったに違いない。会話の内容があまり頭に残っていないから、適当に相槌を打って誤魔化していたのかもしれない。
「ごめん、どんな顔してた?」
「ずっと能面みたいな顔してた」
「それって杏子のことじゃない?」
「そうかも」
顔を見合わせて、笑いだす。杏子とは、こういうやり取りが楽しい。