恋風吹く春、朔月に眠る君
然も当たり前のように、朔良は柔らかく笑う。それまでの発言にあれほどいらいらしていたのに、それだけで舞い上がってしまう私はなんてばかなんだろう。
胸が苦しいなんて気のせいだ。恋人でもなんでもない、ただの幼馴染の関係の私達にそんなものは要らない。
だけど偶に、そう思ってるのは君だけなんだよって言ってしまいそうになる。喉元まで出掛かった言葉がそこで詰まってしまうのは、単に私が臆病なだけだけど。
「何言ってんの。私が気付いて此処に来なかったら一緒になんて帰れなかったよ。現に私一人で帰るとこだったし」
「うん。でも、此処に来てくれたじゃん」
「だからそれはピアノに気付いて――」
そこまで言って気付いた。あの曲を弾いてたのはそれを見越してか。いつも朔良が弾いている朔良のお気に入りの曲。
それが聞こえたから私は、此処に朔良がいるんじゃないかと思ったんじゃないか。
「そろそろ部活終わる頃かなあって。いやあ、双葉はすごいね」
けろりと答えた朔良に苛立ちを覚える。
「もう朔良なんて知らない」
「あ、怒った」
私は朔良を置いて、くるりと踵を返して音楽室を出ようとドアに手を掛ける。
「待って待って、ごめんって。そんなに怒らないでよ」
慌ててピアノを閉じる音が聞こえて振り返った。
「勝手に人で遊ぶからでしょ」
「遊んでないよ」
「じゃあなんでふつーにメッセージ送ってこないの」
「俺ああいうの嫌いだし」
本当に勝手な奴だ。一つ大きな溜息を吐く。
「幸せが逃げちゃうよ」
「煩い」
今のは完全に朔良の所為で幸せが逃げて行ったんだ。くそう、朔良に振り回されっぱなし。悔しくなって用意を終えて此方に近づく朔良の頭をぺしっと叩いた。
「女の子が暴力は良くないよ」
手で頭を擦りながら、朔良は気持ち悪いくらいにへらへらと笑う。全然反省してないな。
思わずもう一度溜息を吐きそうになったけど、朔良にまた『幸せが逃げちゃうよ』って言われるのも癪だから止めた。