鬼常務の獲物は私!?

話し足りない彼女がこっちに手を伸ばしてくるから、捕まえられないように、さらに下がろうとした。

ところが……慌てるあまりに自分の右足に左足を引っ掛け、転びそうになってしまう。


自分でも不思議に思うほど、鈍臭い私。

『のろい』『とろい』『運動神経、どこに落としたの?』と言われて育ち、体育の成績はいつも最低評価だった。

そんな私がバランスを取り戻すことは不可能で、バッタリ後ろにひっくり返ると、営業部のフロアがドッと湧いた。

先輩も後輩も、係長も課長も、部長までもが寄ってきて大笑いしている。


「あ〜、また日菜ちゃんか。相変わらずドジだよな〜」

「ちゃんと受け身を取らないと危ないよ。
福原さんだから転んじゃうのは仕方ないけど、怪我しないようにね」

「いや〜、日菜ちゃんには癒されるな〜。
取引先にネチネチ言われたストレスも吹っ飛んだ。ありがとう」


恥ずかしい……でも、ま、いっか。

外回りから様々なストレスを抱えて帰ってくる営業部の皆さんに、笑って『癒される』と言ってもらえるなら、とろいのも長所になりそう。


のん気な私は仰向けに転がったままで、そんなことを考え中。

笑うばかりで、誰ひとりとして助け起こしてくれないので、そろそろ自力で起き上がろうかと思ったら……それまで賑やかだった周囲の笑い声が、なぜか急に止む。

不思議に思う私の上に影が射し、「おい、営業事務の仕事は寝ることなのか?」と、怒りのこもる低音ボイスが聞こえてきた。


「か、神永常務……」


黒い革靴の先が、頭頂部にコツンと当たる。

百八十センチ越えの長身の男性が、冷ややかな目で見下ろしていた。


ど、どうしよう……。

強い焦りが生まれて、震えてきた。

すぐに起き上がるべきだと思うけれど、体が思うように動いてくれない。


彼は神永彰(あきら)、三十三歳。

この神永メディカルの会長の孫であり、社長の息子でもある御曹司。

そして……怖い人。

お客さんの前では上品な笑顔を作っていても、それ以外で笑った顔を見たことがない。

いつも鋭利なオーラを漂わせ、社員のちょっとしたミスも厳しく叱責するから、神永常務の前ではみんな、怯えている。


そんな彼の前で、床にひっくり返っている私。

こんなときに営業部に来るなんて、タイミングが悪すぎる……。

震えながら起き上がると、深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。つまずいて転んでしまいまして……ええと、その……」

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