ウサギとカメの物語 番外編
メイクも崩れてしまってこのままでは地下鉄に乗れないからタクシーで帰る、と東山さんが言うので、俺は大通りでタクシーをつかまえて彼女を乗せてあげた。
「家でゆっくり休んでね。会社はズル休みしてもいいよ。3日休んだら、あとはちゃんと来てしっかり仕事するといい。大丈夫。みんな待ってるから」
帰り際にそう言うと、タクシーに乗り込んだ彼女がほんの少しだけ微笑んだ気がした。
そのうっすら微笑んだ顔でこっちも安心してしまって、さっきよりは足取りも軽く会社へと舞い戻った。
会社の事務所にはまだ明かりがついていて、誰かが残って仕事をしているということを示していた。
自分のデスクに置きっぱなしにしていた鞄を取りに来ただけなので、簡単に挨拶して帰ろう。
そう思いながら事務所のドアを開けた。
中に残っていたのは、タイミング悪く熊谷課長1人だけだった。
どうやら事務課のみんなや、営業課の数人、そして藤代部長は帰ってしまったらしい。
「お、お疲れ様です、熊谷課長」
「あぁ、君か。お疲れ様」
課長はチラリと俺を見て、気のない適当な返事をして元のパソコン画面へと視線を戻している。
もしかしたら東山さんのミスを報告するための資料でも作っているのかもしれない。
相手が怒っていたとしたら問題にもなるので、こういった事例は少しでも早く上に報告するべきことでもあるからだ。
忙しそうだし、若干ピリついているし、さっさと帰ろう。
「お先に失礼します」って言えばそれで済む。
簡単なことじゃないか━━━━━。
それなのに、課長の顔を見たらいてもたってもいられなくなってしまった。
「課長」
気がついたら俺は課長のデスクへと足を運んでいた。