ウサギとカメの物語 番外編
東山さんの潤んだ瞳からはあっという間にポロポロと涙がこぼれた。
いつもの溢れるような笑顔はもちろんどこにも無い。
彼女はその場にへなへなと座り込み、顔を手で覆った。
「ごめんなさい……。家に帰って、このメモをポケットから見つけて……。忘れてた、って思い出してしまって……。本当に本当に、ごめんなさい……」
やがて熊谷課長がおもむろにイスから立ち上がって東山さんの目の前にツカツカと歩いていった。
その表情は、息を飲むほどに冷たかった。
「バカ女」
すでにシンとしていた事務所内が、さらに静まり返った。
ピリッと張り詰めた空気が漂う。
いや、これは俺の聞き間違いなんだ。
相当疲れが溜まってるんだ。
だから今の発言は熊谷課長が言ったことではなくて、俺の耳がおかしくなって━━━━━。
「お前のことは報告書にしっかり書いておいてやる。あとは必要ない。さっさと帰れ、バカ女」
課長にはいつもの優しそうな口調や表情なんかどこにもなかった。
そこにあったのは、ただただ冷たくて。
東山さんを蔑むように見下ろす感情の無い人間のようだった。
呆気にとられたのは俺だけじゃなかった。
その場にいた全員が固まって、何が起こって、そして課長が何を言ったのか理解出来なかった。
当の課長はというと涼しい顔で自分のデスクに戻り、なにやらパソコンの画面と向き合って仕事を始めてしまった。
まるで何事もなかったみたいに。
それが逆に怖かった。
ほんの少しの間を置いて、東山さんの目からはさっきよりも大粒の涙がこぼれた。
冷たい床に伏せるようにしながら
「課長おおおおおおお捨てないでえええええええ」
と泣き叫んでいた。
ど、ど、どうしよう。
今彼女に声をかけるべきなのか。
だってものすごいショックを受けている。
誰だってあんな酷い言い方されたら傷つくに決まってる。
それが好きな人であればなおさらだ。
しかし課長は「帰れ」とつぶやいて、さらに罵った。
「お前のような頭の悪い女は興味無い」
東山さんのそばにいた大野さんがドン引きした顔で課長を見ているのが視界に入った。
大野さんだけじゃない。
この場にいる人間はほとんど課長に対してのイメージがガラリと変わったんじゃないだろうか。
この男の、化けの皮が剥がれた。
東山さんは涙で濡れた顔を手でこすり、床からヨロヨロと立ち上がると事務所を飛び出していってしまった。