天の神様の言う通り
 「冴子、行こう」
 放心したように花鳥が消えた門を見つめていた冴子は、風月の言葉で我に返った。
 「う、うん」
 バキッダダダン
 「!」
 どこからか響く音に冴子はびくりとする。
 風月は耳こそそちらへ向けたが、焦る様子もなく歩を進めた。冴子も続く。
 どこかまだ冴子が知らない場所にでも行くのかもと思っていたが、さほど移動せず目的地へは着いた。振り向けば、花鳥と別れた朱色の門が見える。
 着いた先は、屋敷の中心部。一番最初に慶と対面した部屋だった。
 「ここが一番安全だから」
 風月は言った。
 部屋の内部は、静かだった。
 「……面付きさん達は、どこに行ったのかしら」
 冴子は、彼らの姿をここへ来るまで一度も見ていないことに、今さらながら気づいた。
 「あいつらは、慶の手伝いに行ってる」
 「全員?」
 「うん」
 彼らは全員で十二人いる。冴子はその全てと面識があった。
 話すことができず、感情の薄い彼らだが、幼い頃から家事を一手に担い、その大変さを知る冴子は、いつも甲斐甲斐しく面倒を見てくれる彼らに好感を抱いていた。特に鼠、兎、羊の面付きには良くしてもらっていたのだ。
 そんな彼らまで駆り出されるとは。
 「風月ちゃん!」
 冴子は意を決して聞いた。
 「花鳥さん達が『反らそうとしてるもの』って、何なの?」
 これが気にならずにおられようか。
 今まで気になりつつも干渉せずにいたのは、聞けるような立場ではないという遠慮もあったが、何より関わりたくないという思いが強かった。慶の怪我や聞き齧っただけでも、到底ついていけそうにない話。対岸の火事であってほしい。そう思っていた。
 しかし、ことは命に関わる。
 怪しい物体が浮かんでいても、害がないという世界。ここで、冴子の常識は通用しない。何が敵で何が味方か自分の物差しで判断できないのだ。逃げる相手の正体くらいは知っておかねば、近くにいても気づかないという笑えない情況になる可能性がある。
 たとえ口止めされていようと聞き出す。そんな意気込みだった。
 「あのね、雪神の赤ちゃん」
 風月はあっさり答えた。
 「え、あ? あ、赤ちゃん?」
 肩透かしを食ったように戸惑う冴子に、風月は頷いた。
 「雪神と人間の子で、すごい力を持ってる」
 神様と人間の子供だとか、そもそも雪神とは何なのか、色々謎は湧くが『なぜ、その赤ん坊が反らすべきもの』なのか。
 「雪神の奥さんが怒って、人間の母親が殺されちゃって、赤ちゃんは暴走しちゃったんだ。それで、雪神に奥さんを説得するまで、赤ちゃんを押さえるように、慶は命じられて……」
 「え、え? ちょっと待って」
 そういう話!?
 冴子は頭を整理する。
 「……雪神にはちゃんと奥さんがいるって、こと?」
 「奥さんも神だから強いんだ」
 いや、そういうことではなくて……。
 神様といえど、女として冴子は雪神の行為に嫌悪感を抱いてしまう。しかし、不倫相手を怒りに任せ殺してしまうとは、些か過激過ぎやしないだろうか。この屋敷とは別の意味でついていけない世界だ。
 しかも、この結構な泥沼話を自分より小さな風月の口から聞くというのも冴子にはなかなかの衝撃だった。
 「……赤ちゃんは母親を探してるってことよね」
 冴子は切ない気持ちに襲われた。自身も唯一無二の父親を亡くした身だ。その気持ちは良くわかる。
 しかも、まだ赤ん坊なのだ。今は亡き母親をさ迷い探すなど、聞いただけで憐れだった。
 その赤ん坊に何の咎があろうか。
 ただ求めているだけなのだ。
 『でも、止めないと、花鳥さん達が傷ついてしまう』
 花鳥の瞼の流血。慶が大怪我を負ったのも、その赤ん坊の力のためなのだから。
 「でも、どうしてここに来ようとするのか、わからないんだ」
 風月の話はそこに行き着く。
 「風月ちゃん達には、心当たりないんだ、よね?」
 風月は頷いた。
 冴子にも、もちろん心当たりはない。あるはずがない。
 しかし、なぜだろう。
 冴子は胸を押さえた。もやもやした。
 何かがひっかかる。
 冴子は、ふっと外を見た。
 声が聞こえた気がした。
 この部屋にいることが重要。視界の妨げになる障子は開け放たれていた。
 切り取られた絵のように、いつもと変わらぬ白い庭がそこにはあった。
 時折、破壊音がこだますことを除けば。
 その中に、別の何かが混じる。そんな気がする。
 冴子は、注視した。
 『気づいて』そう呼びかけられているような。
 冴子は、無意識に立ち上がる。まるで取り憑かれたように。
 それを、不安のせいだと取ったのだろう。風月は冴子の手をぎゅっと握った。
 「あ」
 冴子は、我に返った。
 「大丈夫だよ。ボクが絶対守るから」
  真剣な顔。小さな風月が冴子を安心させようとする姿に、こんな情況だというのに、和んだ。
 「ありがとう。風月ちゃん」
 答えつつ、もう一度外を見た。
 声は聞こえない。胸のもやもやもいつの間にか消えていた。
 
 バリ
 変化が起きた。
 「地震!」
 屋敷が震えている。今まで以上の大音量が響く。
 風月が外に体を半身出した。冴子も耳を押さえながら続く。
 見上げた先、卵の殻が割れるように、空の一部に細やかなヒビが入っていた。
 パラパラと空であったはずの欠片達が落下し、地面に着く前に消える。
 稲妻のように走ったヒビから、にょきっと何かが現れた。
 「!」
 冴子は、息を飲む。今度は口を押さえた。そうしなければ、悲鳴をあげてしまいそうだった。
 それは、手だった。肉付きの良い、ポコポコと団子が並んだような節がある白い腕。赤ん坊の手だ。
 しかし、冴子の想像と違った。
 「雪神様の赤ちゃんって、あんなに大きいの!?」
 巨大だった。ものすごく。
 現れた腕だけで冴子くらいある。
 見上げながら風月は、首を振る。
 「興奮してああなっちゃったんだと思う」
 「……興奮して大きくなるのは、泣き声だけじゃないんですか?」 思わず突っ込んでしまう。
 巨大な赤ん坊は腕を振り回し、遠慮なく空を破壊していく。大きく開いた穴から、遂には頭が現れた。
 垂れんばかりにふっくらした頬。しかし、今は涙に濡れ、痛々しく荒れていた。頭髪は薄く、よたよた覚束ない足取りを見ると、つかまり立ちを卒業したばかりといったところか。
 「オギャアギャー! アー!」
 通常の赤ん坊の泣き声でさえ強烈だというのに、体が大きな分、凄まじい。赤ん坊の泣き声で地面が揺れる。
 呼応するように雪が舞う。
 吹きすさぶ風が、突如冷気を伴う。
 冴子は、身震いした。
 「花鳥がいる」
 風月が叫ぶ。しかし、この大音量の前では、その声さえかき消えてしまいそうだった。隣にいる冴子は、何とか聞き取り、風月の視線の先を追う。
 見つけた。
 赤ん坊の大きさのせいで、常より小さく見えた。
 光る綱のようなものを何本も掴み、その先が赤ん坊の四肢へと伸びている。
 花鳥を見つめる二人の視界に、慶も現れる。
 慶は赤ん坊の顔の前、上空に飛び出した。慶が着る水干の袖があの吹雪きに煽られ、はためいていた。
 冴子には、またまた信じられないことだったが、慶は空中に浮遊しているのだ。
 両手を大きく広げ、その場から微動だのにしない。
 そこに、まるで氷の板でもあるかのよう。赤ん坊は、その板のせいで前進することができず、腕をバタバタと動かして泣いた。
 空いた穴には、何人かの面付き達の姿も見えた。
 慶達の力が功を奏し、赤ん坊は少しずつ後退していく。穴へと戻されていく。
 冴子は、仕方ないと思いつつも、泣き喚く姿に心が傷んだ。
 一瞬、喚く赤ん坊と目があった。
 「あっ!」
 冴子は胸を押さえ、膝を付いた。
 「冴子!?」
 外の攻防に集中していた風月は驚く。
 胸が痛かった。
 塞がずにおれない程だった、外の騒音も今は聞こえない。俯く先には、冴子が居る部屋の床板が見えるはずなのに、全く別のものが映っていた。
 見覚えのある光景。過去の。
 『気づいて』そう懇願する声。
 天啓にうたれたように、冴子はその意味を理解した。
 すると、視界が戻る。冷たい床板がそこにはあった。
 「冴子! 冴子!」
 呼びかける風月の心配気な声。
 「……大丈夫。ありがとう」
 冴子は、ふらつきつつ立ち上がる。額から汗が流れた。
深い水中を潜っていたかのように、呼吸が荒い。なぜか、ひどく疲れていた。
 「冴子、大丈夫? 慶達がもうすぐ雪神の子を追い出してくれるから」
 その言葉に冴子は大きく首を振った。
 「……追い出しちゃ駄目」
 「冴子?」
 「私、部屋へ戻らなきゃ!」
 冴子は風月の肩を掴んだ。
 「あそこに、大切な物があるの。それがあれば、きっと赤ちゃんが大人しくなる。……行かなきゃ」
 戸惑う風月の返事を待たず、飛び出そうとする冴子に、風月がしがみつく。
 「慶に言われたでしょ! 花鳥にも! もし、そんな物があるとしても、雪神の子を追い出せてからでいいでしょ! 今はじっとしてないと、本当に危ないんだよ!」
 冴子は再び首を振る。
 どんなに風月が言い募ろうと、冴子の答えは変わらない。
 皆に押さえられ、泣き喚く姿。赤く腫れた頬。これ以上、このままにしておきたくなかった。救ってやりたい。一刻も早く。
 「風月ちゃん、お願い。お願いします」
 冴子は、そっと風月の顔を両手で包み、懇願した。
 「……」
 譲れない。その想いを込めて、風月を見つめる。
 そして、離れた。
 冴子は、部屋を飛び出した。風月も今度は、止めなかった。
 冴子は走る。体が怠い上、足元は揺れ動き、思うように進めない。冷たい風が吹きすさび、おまけにどこから湧いたのか、異様なものまでそこかしこに現れた。
 「きゃ!」
 目の前の火の玉に、冴子はのけ反る。一つに纏めていた髪先が少し掠め、焦げた臭いが鼻についた。
 受け身を取る余裕などない。冴子は、そのまま後方へ倒れると、強かに尻を打つ……はずだった。
 突如、現れた柔らかな壁に受け止められ、冴子は転倒を免れる。
 「……冴子と一緒に行く」
 壁が言う。それで、抱き止められたのだと、気がついた。
 『風月ちゃん?』
 口調は、そうだ。しかし……。
 「言われたのは『離れるな』だもん。だから、冴子と離れない。大丈夫、僕がちゃんと守ってあげるから」
 冴子は振り返る。
 果たして、そこにいたのは。
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