天の神様の言う通り
吹雪いていた。
赤ん坊の作り出す雪が慶の体温を奪ってゆく。
手の甲に熱い線が走る。気にしていたらきりがない。放たれる波動で、できた傷は至るところにあった。
赤ん坊は、ついに結界を突破し、門の内側に入ってしまった。
それを機に、慶は花鳥に今まで禁止していた直接的な技の使用を許可していた。
ここは慶の聖域。
侵されるのは許しがたいが、侵したなら少々手荒にしたからといって文句など言わせない。
正直、力があるとはいえ、会話もできない赤ん坊に乱暴するのは、躊躇いがあった。
慶は未だ完璧に完治しれていない、胸に手をあてた。その甘さが前回の大怪我に繋がったのだ。
赤ん坊だと片付けるには、力が強大過ぎる。手負いの獣のように、手を抜けばこちらがやられてしまう。
慶は集中した。
しかし、ここは聖域。最新の慶の力を常に注ぎ、作り上げてきた。何度も何度も壁を張るように修復し、改善点を見つけては新たに構築してきたのだ。この場所の隅々まで慶には分かっていたし、伝わる。
それ故、冴子達が動き回る気配もすぐに察知した。
「なんで、じっとしてない!」
術で赤ん坊を押し返しながら、慶は舌打ちした。
結界が破れた今、どんな悪しき者共が入り込むかもしれないというのに。
風月の力の肥大した様子から、本来の姿を現したようだが、安心はできない。むしろ尚更、何かあったのかと勘ぐってしまう。
「慶! 風月が!」
慶同様、風月の変化に気づいた花鳥が下から言う。赤ん坊の大音量の泣き声で肉体的な聴覚はほぼ麻痺していたが、二人を繋ぐ絆の前では障害にはなりはしない。互いが遠方にいれば、集中する必要もあったが、この至近距離であれば心の声は、容易に届いた。
「分かってる。とりあえず、こっちが先だ!」
冴子が最後に見せた笑みが浮かんだ。慶と風月、二人の様子を見てつい、と言って慌てていたが、慶が見た冴子の初めてのちゃんとした笑顔だった。
冴子は最初、明らかに怯えていた。慶も、自分という捕食者の前の冴子は兎のようなものだと思っていた。
慶は、人をよく知らない。最初の記憶からずっと『こちら側』の人間だったから。
そんな慶にとって、人こそ異形なのだ。警戒すべき対象なのだ。
結婚相手が、若かろうが老いていようが、見目の良し悪しさえ、同じ。最初が肝心とばかりに、威圧的に接した。
けれど、触れた手は優しかった。あれほど怖れていたくせに、慶を心配して傍らに眠り、回復を喜んでいた。
花鳥や風月、面付き達が心配するのは当たり前だ。彼らは謂わば、慶の兼族なのだから。
けれど、冴子は違う。まして、好かれることなどしていない。
それなのに、案じてくれた。ざまあみろと舌を出すでなく、優しくしてくれた。
確かめたい。
冴子は、縛らずとも命じずとも、圧せずとも良い相手なのかを。
今日も明日も。
しかし、回復すると共に冴子は来なくなった。
見舞いの品にどれほど苛立ち、そして、気にされていることを密かに喜んだことか。
「あいつは俺よりずっと長生きなんだぞ!」
風月との仲睦まじい様子を見聞きすると、何度もそう告げ口してやろうかとも思った。
しかし、この屋敷に冴子を置く以上、風月の側程安心できる場所はない。それを思うと、引き離すこともできず一人やきもきしていた。
「とにかく、こいつが先だ」
慶は、自身の手により強い力を注いだ。
あと少しで押し返せる。
花鳥が術で作った綱を引き、面付き達が穴の補習の準備をし始めている。
その時、慶は、冴子と風月が近づいてきているのを感じた。
「まさか、来るつもりじゃ……」
そのまさかだった。
風月にしっかり抱き抱えられた冴子は、慶を目指していた。
赤ん坊の吹かす風が勢いを増し、風月の冴子を抱く腕にも力がこもる。
慶と目が合った。
「風月!」
手が話せないのだろう、首だけ二人へと向け、怒りも顕に慶が叫んだ。
「なぜ、命令に背いた! 俺に刃向かうつもりか!」
かなりの剣幕で、冴子など圧倒されていまったが、風月は悪びれる様子もなく、首を振る。
「屋敷から出てないし、冴子の側も離れてないもん」
「こんな時に、屁理屈を言うな! それからお前! 離れろ!」
幼児姿ならまだしも、今の風月と冴子では、似合いの男女にしか見えない。
「だって、こうしてないと、冴子落ちちゃうし」
「五月蝿い! 馴れ馴れしいんだよ! 大体、お前は……」
「あ、あ、あの!」
冴子は、叫んだ。
花鳥同様、風月と慶には絆があるため、通常通り会話が成立していたが、冴子はそうはいかない。
この騒音の中、全く聞き取れずにいた。かろうじて二人の口が動いていることから、何やら言っているのが読み取れたくらいだ。
「風月」
慶は風月に目配せをする。
「いいの?」
慶が頷くと、風月は冴子の耳に触れた。
すると、あれほど騒がしかった音が遠退く。聞こえない訳ではないが、何枚も壁を隔てたように、小さくなった。
「聞こえるか?」
冴子はびくりとする。
「あの、耳が変です。他は小さくなったのに、聞こえます」
「耳じゃない。心に話しているからだ」
今度は冴子にも、慶の声がはっきりと聞こえた。
「え?」
「普通に話せ。聞こえているから」
見上げると、風月も頷いた。
理屈は全くわからない。どうせ冴子がどんなに考えても答えなどでないだろう。
ならば割り切って、会話ができる事実に感謝しありがたく使わせてもらう。
「私に、雪神様の赤ちゃんを止めるチャンスを下さい」
冴子は言うと、両手で握りしめていた琥珀色の玉を慶へと見せた。
「これは、女の人の幽霊にもらいました。その人は、赤ちゃんの母親だったんです」
慶は冴子の言葉に、琥珀色の玉を吟味するように見た。
「なぜ、分かる?」
断言する冴子に慶は問う。
「見たからです」
「見た?」
冴子は、頷く。
「お母さんが私に見せたんです。赤ちゃんをあやす姿。赤ちゃんに持たせてって……」
それが、冴子の視界に映った映像。『気づいて』と、囁いていたのは、彼女だったのだ。
「見た……視た、か」
慶は思案するように、冴子を見る。
常人にそんなことが、可能だろうか。
冴子は以前、猿面を消した。冴子に力があるかもしれないという話も聞いた。
何より、慶自身、冴子が持つ琥珀色の玉から赤ん坊に近い波動を感じていた。
「……わかった。なら、それを風月に渡して、お前は帰れ」
しかし、慶のその言葉に、冴子は玉を手の内に隠した。
「私が一人で行きます」
冴子は、きっぱり言った。
「は? 何を馬鹿な」
慶は呆れ声を出した。
「あのな、どうやって行くつもりだ? あいつの回りにぐるりと斜のかかった膜だって張ってあるんだぞ。お前が入れる訳かないだろ」
「斜のかかった膜?」
「そうだ。そうやって防いでるからこの程度で済んでるんだ。あと、顔を見られて後に復讐に来られても厄介だしな。けれど渡すとなれば、あの中に入らないと無理なんだぞ」
自身を守る術を知らない冴子が行けば、どうなるか自ずとわかると言うもの。
しかし、それでも冴子は首を縦に振りはしなかった。
慶は舌打ちした。
「あのな、本当に馬鹿なのか。普通に考えれば、ここにいる誰よりお前が不適任なのは、明白だろが」
「お母さんは私に、託したんです。お願いします。私一人に行かせて下さい」
冴子は、頑なに主張した。譲るつもりは毛頭なかった。
映像を見たことで、母親の想いに強く同調させられたのかもしれない。
それにもう一つ譲れない理由があった。
「お願いします」
冴子は、頭を下げて懇願した。
「……」
この時、慶は初めて冴子の強さを感じた。自分に頭を下げている相手にだ。
「自分のためには、使わなかったくせに……」
人のためにばかり、使うんだな。
ぼそりと、呟き、慶は溜め息を吐いた。
確かに、冴子の言葉も一理あった。
母親は冴子に頼んだのだ。他の誰でもない冴子に。
こういった願いや想いというのは、繊細なもの。意に添わず、一つ間違えただけで、有効に発動しない場合も多々あるのだ。
しかし……。
慶の思考を遮るように、一陣の風が三人に襲いかかる。慶は、手に力を込め、退ける。
風月は、着物の袖で冴子を庇いつつ、慶に倣った。
「慶! 後ろ!」
下から叫ぶ花鳥の声が、切迫していた。
「あのヤロウ、呼び寄せやがったな」
慶は舌打ちした。
開いた穴から続々と得たいのしれない黒いものが、涌き出ていた。
それは、影。闇の塊。目らしき部分には二つの穴があった。
冴子に異形のものの善し悪しはわからない。しかし、慶の反応を見れば、良いものでないのは明らかだった。
「……風月!」
慶は短く言うと、風月を呼び寄せ交代を命じる。
冴子は自動的に慶の腕へと移された。
頭一つ分程、冴子より小さい慶では、風月のように抱き抱えることはできない。
ただ、手を繋ぐ。それだけで、冴子の体がふわりと浮き上がった。
慶は、もう片方の手を自身の顔の前にかざした。体が白く発光する。繋いだ手から、熱を感じた。
慶は、手を黒いもの達に向けた。体内に捕らえられていた光が開放的されたように、慶の体から一斉に解き放たれる。
黒いものは一瞬で、霧散した。
しかし、それもつかの間。再び涌き出す。きりがない。
慶は舌打ちした。
「どちらにしろ。俺達は抑えるのに精一杯だ。いいか。俺が守護してやる。それで幾らかましになる」
慶は冴子の返事を待たず、手の平を冴子の額に押し当てた。
「!」
何か暖かいものが、慶の手を通し全身に流れ込んでいく。寒さが薄らぎ、ふらついていた体に活力が戻ってきた。
手が離される。冴子は、落下を想像したが、浮遊感は続いた。冴子は、一人でも浮いていた。
「膜を一部解いてやる。やつの顔の前だ。……いいんだな?」
慶はそう言いつつも、弱気になるのを期待していた。
しかし、冴子はびくつきつつも、結局断念するとは言わなかった。
「できる限り、やってみます」
そう言いさえした。
そして、思い出したように言った。
「それから、あの、こんな時ですが、綺麗なお花、ありがとうございました」
冴子は慶に向かってお辞儀した。
そして、じゃあ、と一歩踏み出す。
思わず慶は冴子の手を再び掴んだ。
「……願いを一つ聞いてやる」
呟く。
「え」
「成功させたなら」
冴子の望みはただ一つ、家に帰ることだ。慶だって、わかっているはず。
「俺は約束は守る」
真摯な目が、本気だと言っていた。
冴子は、その目を見つめつつ、頷いた。
慶は、名残惜しそうに、繋がれた手を放した。
赤ん坊の作り出す雪が慶の体温を奪ってゆく。
手の甲に熱い線が走る。気にしていたらきりがない。放たれる波動で、できた傷は至るところにあった。
赤ん坊は、ついに結界を突破し、門の内側に入ってしまった。
それを機に、慶は花鳥に今まで禁止していた直接的な技の使用を許可していた。
ここは慶の聖域。
侵されるのは許しがたいが、侵したなら少々手荒にしたからといって文句など言わせない。
正直、力があるとはいえ、会話もできない赤ん坊に乱暴するのは、躊躇いがあった。
慶は未だ完璧に完治しれていない、胸に手をあてた。その甘さが前回の大怪我に繋がったのだ。
赤ん坊だと片付けるには、力が強大過ぎる。手負いの獣のように、手を抜けばこちらがやられてしまう。
慶は集中した。
しかし、ここは聖域。最新の慶の力を常に注ぎ、作り上げてきた。何度も何度も壁を張るように修復し、改善点を見つけては新たに構築してきたのだ。この場所の隅々まで慶には分かっていたし、伝わる。
それ故、冴子達が動き回る気配もすぐに察知した。
「なんで、じっとしてない!」
術で赤ん坊を押し返しながら、慶は舌打ちした。
結界が破れた今、どんな悪しき者共が入り込むかもしれないというのに。
風月の力の肥大した様子から、本来の姿を現したようだが、安心はできない。むしろ尚更、何かあったのかと勘ぐってしまう。
「慶! 風月が!」
慶同様、風月の変化に気づいた花鳥が下から言う。赤ん坊の大音量の泣き声で肉体的な聴覚はほぼ麻痺していたが、二人を繋ぐ絆の前では障害にはなりはしない。互いが遠方にいれば、集中する必要もあったが、この至近距離であれば心の声は、容易に届いた。
「分かってる。とりあえず、こっちが先だ!」
冴子が最後に見せた笑みが浮かんだ。慶と風月、二人の様子を見てつい、と言って慌てていたが、慶が見た冴子の初めてのちゃんとした笑顔だった。
冴子は最初、明らかに怯えていた。慶も、自分という捕食者の前の冴子は兎のようなものだと思っていた。
慶は、人をよく知らない。最初の記憶からずっと『こちら側』の人間だったから。
そんな慶にとって、人こそ異形なのだ。警戒すべき対象なのだ。
結婚相手が、若かろうが老いていようが、見目の良し悪しさえ、同じ。最初が肝心とばかりに、威圧的に接した。
けれど、触れた手は優しかった。あれほど怖れていたくせに、慶を心配して傍らに眠り、回復を喜んでいた。
花鳥や風月、面付き達が心配するのは当たり前だ。彼らは謂わば、慶の兼族なのだから。
けれど、冴子は違う。まして、好かれることなどしていない。
それなのに、案じてくれた。ざまあみろと舌を出すでなく、優しくしてくれた。
確かめたい。
冴子は、縛らずとも命じずとも、圧せずとも良い相手なのかを。
今日も明日も。
しかし、回復すると共に冴子は来なくなった。
見舞いの品にどれほど苛立ち、そして、気にされていることを密かに喜んだことか。
「あいつは俺よりずっと長生きなんだぞ!」
風月との仲睦まじい様子を見聞きすると、何度もそう告げ口してやろうかとも思った。
しかし、この屋敷に冴子を置く以上、風月の側程安心できる場所はない。それを思うと、引き離すこともできず一人やきもきしていた。
「とにかく、こいつが先だ」
慶は、自身の手により強い力を注いだ。
あと少しで押し返せる。
花鳥が術で作った綱を引き、面付き達が穴の補習の準備をし始めている。
その時、慶は、冴子と風月が近づいてきているのを感じた。
「まさか、来るつもりじゃ……」
そのまさかだった。
風月にしっかり抱き抱えられた冴子は、慶を目指していた。
赤ん坊の吹かす風が勢いを増し、風月の冴子を抱く腕にも力がこもる。
慶と目が合った。
「風月!」
手が話せないのだろう、首だけ二人へと向け、怒りも顕に慶が叫んだ。
「なぜ、命令に背いた! 俺に刃向かうつもりか!」
かなりの剣幕で、冴子など圧倒されていまったが、風月は悪びれる様子もなく、首を振る。
「屋敷から出てないし、冴子の側も離れてないもん」
「こんな時に、屁理屈を言うな! それからお前! 離れろ!」
幼児姿ならまだしも、今の風月と冴子では、似合いの男女にしか見えない。
「だって、こうしてないと、冴子落ちちゃうし」
「五月蝿い! 馴れ馴れしいんだよ! 大体、お前は……」
「あ、あ、あの!」
冴子は、叫んだ。
花鳥同様、風月と慶には絆があるため、通常通り会話が成立していたが、冴子はそうはいかない。
この騒音の中、全く聞き取れずにいた。かろうじて二人の口が動いていることから、何やら言っているのが読み取れたくらいだ。
「風月」
慶は風月に目配せをする。
「いいの?」
慶が頷くと、風月は冴子の耳に触れた。
すると、あれほど騒がしかった音が遠退く。聞こえない訳ではないが、何枚も壁を隔てたように、小さくなった。
「聞こえるか?」
冴子はびくりとする。
「あの、耳が変です。他は小さくなったのに、聞こえます」
「耳じゃない。心に話しているからだ」
今度は冴子にも、慶の声がはっきりと聞こえた。
「え?」
「普通に話せ。聞こえているから」
見上げると、風月も頷いた。
理屈は全くわからない。どうせ冴子がどんなに考えても答えなどでないだろう。
ならば割り切って、会話ができる事実に感謝しありがたく使わせてもらう。
「私に、雪神様の赤ちゃんを止めるチャンスを下さい」
冴子は言うと、両手で握りしめていた琥珀色の玉を慶へと見せた。
「これは、女の人の幽霊にもらいました。その人は、赤ちゃんの母親だったんです」
慶は冴子の言葉に、琥珀色の玉を吟味するように見た。
「なぜ、分かる?」
断言する冴子に慶は問う。
「見たからです」
「見た?」
冴子は、頷く。
「お母さんが私に見せたんです。赤ちゃんをあやす姿。赤ちゃんに持たせてって……」
それが、冴子の視界に映った映像。『気づいて』と、囁いていたのは、彼女だったのだ。
「見た……視た、か」
慶は思案するように、冴子を見る。
常人にそんなことが、可能だろうか。
冴子は以前、猿面を消した。冴子に力があるかもしれないという話も聞いた。
何より、慶自身、冴子が持つ琥珀色の玉から赤ん坊に近い波動を感じていた。
「……わかった。なら、それを風月に渡して、お前は帰れ」
しかし、慶のその言葉に、冴子は玉を手の内に隠した。
「私が一人で行きます」
冴子は、きっぱり言った。
「は? 何を馬鹿な」
慶は呆れ声を出した。
「あのな、どうやって行くつもりだ? あいつの回りにぐるりと斜のかかった膜だって張ってあるんだぞ。お前が入れる訳かないだろ」
「斜のかかった膜?」
「そうだ。そうやって防いでるからこの程度で済んでるんだ。あと、顔を見られて後に復讐に来られても厄介だしな。けれど渡すとなれば、あの中に入らないと無理なんだぞ」
自身を守る術を知らない冴子が行けば、どうなるか自ずとわかると言うもの。
しかし、それでも冴子は首を縦に振りはしなかった。
慶は舌打ちした。
「あのな、本当に馬鹿なのか。普通に考えれば、ここにいる誰よりお前が不適任なのは、明白だろが」
「お母さんは私に、託したんです。お願いします。私一人に行かせて下さい」
冴子は、頑なに主張した。譲るつもりは毛頭なかった。
映像を見たことで、母親の想いに強く同調させられたのかもしれない。
それにもう一つ譲れない理由があった。
「お願いします」
冴子は、頭を下げて懇願した。
「……」
この時、慶は初めて冴子の強さを感じた。自分に頭を下げている相手にだ。
「自分のためには、使わなかったくせに……」
人のためにばかり、使うんだな。
ぼそりと、呟き、慶は溜め息を吐いた。
確かに、冴子の言葉も一理あった。
母親は冴子に頼んだのだ。他の誰でもない冴子に。
こういった願いや想いというのは、繊細なもの。意に添わず、一つ間違えただけで、有効に発動しない場合も多々あるのだ。
しかし……。
慶の思考を遮るように、一陣の風が三人に襲いかかる。慶は、手に力を込め、退ける。
風月は、着物の袖で冴子を庇いつつ、慶に倣った。
「慶! 後ろ!」
下から叫ぶ花鳥の声が、切迫していた。
「あのヤロウ、呼び寄せやがったな」
慶は舌打ちした。
開いた穴から続々と得たいのしれない黒いものが、涌き出ていた。
それは、影。闇の塊。目らしき部分には二つの穴があった。
冴子に異形のものの善し悪しはわからない。しかし、慶の反応を見れば、良いものでないのは明らかだった。
「……風月!」
慶は短く言うと、風月を呼び寄せ交代を命じる。
冴子は自動的に慶の腕へと移された。
頭一つ分程、冴子より小さい慶では、風月のように抱き抱えることはできない。
ただ、手を繋ぐ。それだけで、冴子の体がふわりと浮き上がった。
慶は、もう片方の手を自身の顔の前にかざした。体が白く発光する。繋いだ手から、熱を感じた。
慶は、手を黒いもの達に向けた。体内に捕らえられていた光が開放的されたように、慶の体から一斉に解き放たれる。
黒いものは一瞬で、霧散した。
しかし、それもつかの間。再び涌き出す。きりがない。
慶は舌打ちした。
「どちらにしろ。俺達は抑えるのに精一杯だ。いいか。俺が守護してやる。それで幾らかましになる」
慶は冴子の返事を待たず、手の平を冴子の額に押し当てた。
「!」
何か暖かいものが、慶の手を通し全身に流れ込んでいく。寒さが薄らぎ、ふらついていた体に活力が戻ってきた。
手が離される。冴子は、落下を想像したが、浮遊感は続いた。冴子は、一人でも浮いていた。
「膜を一部解いてやる。やつの顔の前だ。……いいんだな?」
慶はそう言いつつも、弱気になるのを期待していた。
しかし、冴子はびくつきつつも、結局断念するとは言わなかった。
「できる限り、やってみます」
そう言いさえした。
そして、思い出したように言った。
「それから、あの、こんな時ですが、綺麗なお花、ありがとうございました」
冴子は慶に向かってお辞儀した。
そして、じゃあ、と一歩踏み出す。
思わず慶は冴子の手を再び掴んだ。
「……願いを一つ聞いてやる」
呟く。
「え」
「成功させたなら」
冴子の望みはただ一つ、家に帰ることだ。慶だって、わかっているはず。
「俺は約束は守る」
真摯な目が、本気だと言っていた。
冴子は、その目を見つめつつ、頷いた。
慶は、名残惜しそうに、繋がれた手を放した。