天の神様の言う通り
新たな日常
 頬に硬い感触。滑らかでひんやりした床板。素人目にも、上質の木材が使われているとわかる。
 「この屋敷いくらするんだろ」
 小さな補修を繰り返し、騙し騙し暮らしてきた自身の家とは比べ物にならないのは確かだ。
 冴子は、廊下に寝転び、ぼんやりと美しい庭を眺めていた。
 ここには、冴子がやるべき仕事がない。
 食事は勿論、洗濯も掃除も布団の上げ下げまで、慶の言う面付き達がやってくれるのだ。
 あれから一週間。
 それはそのまま、慶達に会っていない日数であった。
 面付き達に、二人のことを聞いても返事はない。
 無視されたと最初は傷ついたが、一緒に過ごすうち、どうやら彼らは話せないらしいことに気づいた。
 それでも彼らがいてくれるだけも救いだった。
 この静かな屋敷に一人きりでは、孤独に耐えられなかっただろうから。まるで世の中に自分しかいないようで。
 「あ、また」
 冴子は呟く。
 どこからか現れた、拳位の発光体が庭に浮遊し始めたのだ。
 冴子は動じなかった。
 ここでは、怪奇な現象は日常茶飯事。
 巨大な男や、血だらけの女に飴をもらったことまである。
 慣れとは怖いもので、最初は恐怖で布団を被り震えていたが、今や発光体程度では驚かなくなってしまった。
 ただそんな冴子にも、気になる存在があった。
 冴子は視界の先に意識を向ける。
 建物の角から見える小さな影。
 他のものは流動的で、暫くするといなくなり、二度と見ることがないのだが、この影だけは違う。
 三日ほど前からだろうか。
 何か仕掛けてくるわけではない。ただいつも一定の距離を保ち、冴子を見ている。見張っていると言ってもいい。
 気味も悪いが気分も悪い。
 「んー」
 冴子は大きく伸びをし、立ち上がる。そして、宛がわれた部屋へとなに食わぬ顔で、入った。
 影は戸が閉まるのを確認し、ひたりひたりと歩み寄る。そして、戸の前へやって来た。
 その瞬間を、冴子は逃さなかった。
 「ひっ!」
 影が短い悲鳴をあげた。
 戸を開き冴子は勢いよく飛び出すと、影の手を掴んだ。
 正体見たり! 明るみになった影は、思いの外、小さい。
 「……子供?」
 冴子は、近所にいた子供達を思い浮かべる。五つ位だろうか。
 しかし、一目見て、普通の子供ではないことはわかった。
 子供の頭には三角の耳が付いていていたのだ。
 思わず手が緩み、その隙に子供が逃れる。
 「待って!」
 冴子は叫んだ。
 子供は先にいた角へと逃げ込んだが、そこに留まっていることは、気配でわかった。
 「驚かせてごめんなさい。ずっと、気になってたの」
 沈黙。冴子は焦らせず、気長に待った。
 「何もしないから、顔を見せて」
 諦めかけた時、おそるおそるといった感じで、角から子供は姿を現した。
 『やっぱり耳が付いてる』
 よく見ると尻尾もある。しかも二本。
 子供が警戒しないよう、少し身を屈め、冴子からゆっくり歩み寄る。
 「こんにちは。私のこと、知ってるの?」
 優しく問う。
 子供は、上目使いに冴子を見ると、微かに頷いた。素顔を晒してはいるが、この子も話せないのかと思ったら、口を開いた。
 「……慶のお嫁さん」
 その未だ抵抗がある響きに、冴子は動揺したが、顔には出さなかった。
 「私は冴子だよ。あなたは誰?」
 「風月」
 「ふうげつ?」
 子供は、頷いた。
 先に知り合った花鳥。この子が風月。
 花鳥風月。
 花鳥は明らかに面付き達や、たまに現れる得たいの知れないものとは違う。
 その花鳥と対になる名前を持つこの子もやはり特別な存在なのだろうと、冴子は思った。
 「風月の主人も慶なの?」
 風月はこくりと頷く。
 「どうして、私を見ていたの?」
 「……どんな人かと思って……」
 もみじの手をすり合わせ、もじもじと風月は言った。
 おかっぱ頭にぷっくりと張った林檎色の頬。耳や尻尾が気にならないわけではなかったが、見た目も仕草も、幼い子供そのものの風月を見ていると、警戒心が薄れる。
 それに、小さな子供とはいえ、冴子にとっては久方振りの話し相手だ。
 そういう相手が現れただけで、嬉しかった。
 「ねえ。どうせ私を見てるんなら、一緒にいてくれない? 一人ぼっちで退屈していたの」
 冴子は正直に言った。
 「……意地悪しない?」
 「そんな風に見える?」
 風月の問いに、冴子は逆に尋ねた。
 風月は、目にかかりそうな前髪の隙間から、冴子を凝視する。
 そして、首を振った。
 「ありがとう」
 冴子は、笑んだ。
 笑顔を見せたのは、この場所へ来て初めてのことだった。
 警戒させるかと躊躇いがちに、冴子は風月の頭を撫でた。風月はびくっと、身を硬くしたが、受け入れてくれた。
 「意地悪なことはしないって誓うわ」
 冴子は自ら誓いの言葉を述べた。
 風月はぎこちなく、はにかんだ笑みを見せた。

 こうして、一人でいる時間が、二人の時間になった。
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