天の神様の言う通り
 「冴子、こっち」
 小さな手が、冴子の手を引く。
 物静かな子だから、決して大きな声を出したわけではなかったが、嬉しいと思う、その気持ちは伝わってきた。
 ちょうど自室の反対側だろうか。屋敷は広大な上、造りは複雑。冴子一人なら迷子になってしまううだろう。
 その日、風月に案内され訪れたのは、いつも見ていた庭とは趣の違う場所であった。
 「綺麗」
 冴子の口から感嘆が盛れた。
 目の前に広がるのは、広大な花畑。
 目にも鮮やかな色彩が、二人を迎えてくれた。涼やかな風が花々を揺らす。
 二人は裸足のまま欄干を越え、草の上に座った。
 冴子は花冠を作ると、風月の頭に乗せてあげた。嬉しそうに微笑む姿に、冴子も相貌を崩す。甘えるように頬を擦り付け、抱きついてきた風月の頭を、冴子は優しく撫でた。
 風月はすっかり冴子に打ち解けていた。
 それもそのはず、あれから月日は流れ、三ヶ月も経ったのだから。
 今では、ほとんどの時間を供にするようになっていた。
 風月は親しくなっても口数の少ない子であったが、姉のように、母親のように冴子に甘えてくれた。冴子もまた、それが嬉しかった。
 風月は、猫又という妖だという。
 以前であれば、妖と聞いても神様同様、現実味のない話であったが、ここで暮らすうち、冴子の中でそれらは着実に身近なものになっていた。
 そもそも、受け入れなければ、精神が壊れてしまう。
 とにもかくにも、この生活に冴子が慣れ始めたのは事実だった。
 だから屋敷が、現と神の國の狭間に建っているという風月のまるで夢物語のような説明も『こんな浮世離れした場所だ。さもありなん』と、納得した。
 同時に、不可思議なことに遭遇する度、ここからの逃走が不可能だと思い知らされた。
 実は冴子は、数日前に屋敷の塀に門を発見していた。しかし、飛び出す勇気はない。
 『一人ではとても無理』
 飛び出したが最後、鬼が出るか蛇が出るか。例え話などではない。あの先に何が待ち構えていてもおかしくないのだ。
 感情に任せて逃げるのは、あまりにも無謀。
 慶の力が必要だった。
 そのためにも、この屋敷を知らねばならないと、冴子は近頃考えていた。
 次回対面した時も、慶のあの不遜な態度は変わらないだろう。だからといって怯んでばかりでは、帰るなど夢のまた夢。少しでも落ち着いていられるよう、せめて場所には馴染んでおきたかった。
 屋敷を案内してもらっているのも、いわばその一環。
 風月のおかげて、冴子は今や屋敷の多くの場所を見知っていた。
 ……穏やか過ぎる暮らしの中、それが冴子にできる唯一のことであり、密やかな抵抗でもあった。
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