天の神様の言う通り
その日の晩。
「う、ん」
風月が、何やら寝言を言う。冴子は微笑み、その頭をそっと撫でた。
面付き達は、部屋に必ず布団を二人分用意してくれたが、風月はいつも冴子の布団へと潜り込んだ。そして二人は寄り添って眠る。
少々手狭だが、子供の暖かな体温と邪気のない寝顔に心が安らぎ、あまりのことに不眠が続いた冴子も、近頃はすんなり眠ることができるようになっていた。
しかし、今夜はなぜだろう。
不思議と心がざわめく。
冴子は風月を起こさないように、そっと身を起こした。
床はひんやりと冷たい。音をたてないように部屋の戸を開いた。
現と神の國の間だという、この屋敷にも現と変わらない時間軸がある。
夜は夜。闇こそ空の主役だった。星はない。しかし月はある。ただし、この月は欠けることがない。いつ見ても満月だった。
「本当に不思議なところ」
欄干に手をつき、冴子はつくづく思った。
こんな世界があることを知っている人は、一体どれ程いるのだろうか。おそらく、ごく少数だろう。
そんな少数の中に、ごくごく普通である自分がいるとは。
全て夢だと言われた方が、まだ納得できそうだ。冴子は運命の妙を感じずにはいられなかった。
ガタガタ
「?」
どこからか音がする。
またおかしなものでも出たのだろうか。
怪しんでいると、何やら人の声まで微かに聞こえる。
心細さを感じ、部屋で眠る風月を起こそうかとも思ったが、可哀想な気がして断念した。
冴子はどきどきする胸を押さえ、音源を目指した。
長い回路を抜けると、視界にぼんやりとした灯りが見えた。
戸から洩れ出た灯り。大して強いものではなかったが、周囲が暗い故、際立っている。
冴子は恐る恐る戸を少し開き、中を覗いた。
最初に気付いたのは、隙間から一気に溢れた鉄の臭い。
『血だ!』
幼い頃から、医者である父の手伝いをしてきた冴子にはすぐにわかった。
中へと駆け込んだ。
「大丈夫ですか!」
突然の冴子の出現に、花鳥は驚く。
「冴ちゃん! なんでここに……」
「そんなことより、これ……」
冴子は眉をひそめた。
花月の前に、慶が横たわっている。その胸元は、真っ赤に染まっていた。
「久し振りなのに悪いけど、今冴ちゃんに構ってる余裕ないんだよね。あっち行ってて」
花鳥のはっきりとした拒絶に、冴子は下がる。しかし、外へは出なかった。
「おい! 馬と鳥はまだ戻らないのか!」
花鳥の叫びに、傍らに控えた面付き達は首を振る。
花鳥は舌打ちし、慶の衣を脱がしにかかった。
慶はぐったりと力なく、微動だにしない。元々少し蒼白かった顔は、今は白い。血の気が抜けている。充満する鉄の臭いが、どれ程慶が出血しているかを物語っていた。
「慶!」
花鳥は叫ぶ。顔には焦りがあった。迷いのある手。このままではいけないのはわかっているが、この先どうすればいいのかわからないのだ。
それが伝わったから。冴子は衝動的に口を開いていた。
「私に見せて下さい!」
冴子は言うと同時に、再び慶の側へと寄る。
しかし花鳥が腕を伸ばして、それを遮った。まるで主人を守る番犬のように。
冴子にどちらかといえば友好的だったはずの花鳥。その花月は警戒する瞳で冴子を見た。
冴子は自身が疑われているのだと悟った。
「私の父はお医者だったんです。私は、いつもその手伝いをしていたから怪我人の扱いも慣れてるんです」
噛んで含ませるように、冴子は言った。
「私が変な動きをしたら、どんな罰でも受けます」
花鳥はそれでも、腕を引かない。
冴子は苛立った。信用してくれないからではない。
この無駄なやり取りに苛立ったのだ。
こうしている間にも、慶の命が体から零れてしまう。
「いい加減にして! あなたは助けたくないの!」
冴子は叫んだ。花鳥を睨む。
「どいて!」
冴子は、花月の腕を強引に振り払った。
この時ばかりは、立場なんて知ったことではなかった。
必死だった。
開かれた胸元には太刀傷に似た傷。他にも裂傷など見られたが、とにかくここを止血せねば。
「清潔な大量の布と、今から言う薬を持ってきて! あと、部屋を暖かくして!」
冴子の指示に、面付き達が部屋を出て行く。
冴子は自身の着物の袖を裂くと、患部に押しあてた。
『お願い止まって!』
自身の手が、着物が赤く染まるのも構わず、冴子は慶の胸を押さえた。裂いた袖がすぐに赤に染まる。
面付き達が、言われた品を携え戻ると、押しあてたその上に、更に布を重ねて圧迫する。
「名前呼んであげて!」
背後に向かって冴子は言った。
引き止めるために。繋ぎ止めるために。
気休めでしかない。そう思うかもしれない。しかし、それで峠を乗りきった人を冴子は父の傍らで何度も見たのだ。
冴子にとって神様よりも身近な事実だった。
「慶! しっかりしろ!」
冴子の言葉に花鳥が横合いから何度も呼びかける。
慶は反応しない。
触れた慶の体は、思った異常に細く、華奢だった。
少年が負うには、あまりに痛々しい怪我。
冴子は奥歯を噛み締めた。
「お願い、頑張って!」
自身も呼びかけた。
怖い、理不尽だ、解放してほしい……慶に対し、様々な負の思いを抱いている。正直、好感などない。
しかしこの時、冴子の中には消えようとする命を救いたい。この少年が助かってほしい。その一心しかなかった。
「う、ん」
風月が、何やら寝言を言う。冴子は微笑み、その頭をそっと撫でた。
面付き達は、部屋に必ず布団を二人分用意してくれたが、風月はいつも冴子の布団へと潜り込んだ。そして二人は寄り添って眠る。
少々手狭だが、子供の暖かな体温と邪気のない寝顔に心が安らぎ、あまりのことに不眠が続いた冴子も、近頃はすんなり眠ることができるようになっていた。
しかし、今夜はなぜだろう。
不思議と心がざわめく。
冴子は風月を起こさないように、そっと身を起こした。
床はひんやりと冷たい。音をたてないように部屋の戸を開いた。
現と神の國の間だという、この屋敷にも現と変わらない時間軸がある。
夜は夜。闇こそ空の主役だった。星はない。しかし月はある。ただし、この月は欠けることがない。いつ見ても満月だった。
「本当に不思議なところ」
欄干に手をつき、冴子はつくづく思った。
こんな世界があることを知っている人は、一体どれ程いるのだろうか。おそらく、ごく少数だろう。
そんな少数の中に、ごくごく普通である自分がいるとは。
全て夢だと言われた方が、まだ納得できそうだ。冴子は運命の妙を感じずにはいられなかった。
ガタガタ
「?」
どこからか音がする。
またおかしなものでも出たのだろうか。
怪しんでいると、何やら人の声まで微かに聞こえる。
心細さを感じ、部屋で眠る風月を起こそうかとも思ったが、可哀想な気がして断念した。
冴子はどきどきする胸を押さえ、音源を目指した。
長い回路を抜けると、視界にぼんやりとした灯りが見えた。
戸から洩れ出た灯り。大して強いものではなかったが、周囲が暗い故、際立っている。
冴子は恐る恐る戸を少し開き、中を覗いた。
最初に気付いたのは、隙間から一気に溢れた鉄の臭い。
『血だ!』
幼い頃から、医者である父の手伝いをしてきた冴子にはすぐにわかった。
中へと駆け込んだ。
「大丈夫ですか!」
突然の冴子の出現に、花鳥は驚く。
「冴ちゃん! なんでここに……」
「そんなことより、これ……」
冴子は眉をひそめた。
花月の前に、慶が横たわっている。その胸元は、真っ赤に染まっていた。
「久し振りなのに悪いけど、今冴ちゃんに構ってる余裕ないんだよね。あっち行ってて」
花鳥のはっきりとした拒絶に、冴子は下がる。しかし、外へは出なかった。
「おい! 馬と鳥はまだ戻らないのか!」
花鳥の叫びに、傍らに控えた面付き達は首を振る。
花鳥は舌打ちし、慶の衣を脱がしにかかった。
慶はぐったりと力なく、微動だにしない。元々少し蒼白かった顔は、今は白い。血の気が抜けている。充満する鉄の臭いが、どれ程慶が出血しているかを物語っていた。
「慶!」
花鳥は叫ぶ。顔には焦りがあった。迷いのある手。このままではいけないのはわかっているが、この先どうすればいいのかわからないのだ。
それが伝わったから。冴子は衝動的に口を開いていた。
「私に見せて下さい!」
冴子は言うと同時に、再び慶の側へと寄る。
しかし花鳥が腕を伸ばして、それを遮った。まるで主人を守る番犬のように。
冴子にどちらかといえば友好的だったはずの花鳥。その花月は警戒する瞳で冴子を見た。
冴子は自身が疑われているのだと悟った。
「私の父はお医者だったんです。私は、いつもその手伝いをしていたから怪我人の扱いも慣れてるんです」
噛んで含ませるように、冴子は言った。
「私が変な動きをしたら、どんな罰でも受けます」
花鳥はそれでも、腕を引かない。
冴子は苛立った。信用してくれないからではない。
この無駄なやり取りに苛立ったのだ。
こうしている間にも、慶の命が体から零れてしまう。
「いい加減にして! あなたは助けたくないの!」
冴子は叫んだ。花鳥を睨む。
「どいて!」
冴子は、花月の腕を強引に振り払った。
この時ばかりは、立場なんて知ったことではなかった。
必死だった。
開かれた胸元には太刀傷に似た傷。他にも裂傷など見られたが、とにかくここを止血せねば。
「清潔な大量の布と、今から言う薬を持ってきて! あと、部屋を暖かくして!」
冴子の指示に、面付き達が部屋を出て行く。
冴子は自身の着物の袖を裂くと、患部に押しあてた。
『お願い止まって!』
自身の手が、着物が赤く染まるのも構わず、冴子は慶の胸を押さえた。裂いた袖がすぐに赤に染まる。
面付き達が、言われた品を携え戻ると、押しあてたその上に、更に布を重ねて圧迫する。
「名前呼んであげて!」
背後に向かって冴子は言った。
引き止めるために。繋ぎ止めるために。
気休めでしかない。そう思うかもしれない。しかし、それで峠を乗りきった人を冴子は父の傍らで何度も見たのだ。
冴子にとって神様よりも身近な事実だった。
「慶! しっかりしろ!」
冴子の言葉に花鳥が横合いから何度も呼びかける。
慶は反応しない。
触れた慶の体は、思った異常に細く、華奢だった。
少年が負うには、あまりに痛々しい怪我。
冴子は奥歯を噛み締めた。
「お願い、頑張って!」
自身も呼びかけた。
怖い、理不尽だ、解放してほしい……慶に対し、様々な負の思いを抱いている。正直、好感などない。
しかしこの時、冴子の中には消えようとする命を救いたい。この少年が助かってほしい。その一心しかなかった。