天の神様の言う通り
慶が次に目覚めた時、最初に視界に入ったのは、花鳥だった。
その脇には、風月。また泣いている。後方には面付きの姿。
馴染みのメンバーだ。
しかし、何か物足りない。慶は無意識に視線をさ迷わせ、足りないと感じる原因に気づいた。
娘がいないのだ。
黒い髪。長い睫毛。冷たく、けれど優しい手をしていた。
あれは、夢だったのだろうか。
『そう言えば、名前』
考えていると控えめに障子が開き、思い浮かべていた人物が入ってきた。
冴子は部屋の中へ入ると、遠慮がちに座した。
入ってきたことを気にする者はいない。冴子も、家族の立ち会いを邪魔するつもりはなかった。
花鳥達がとれほど辛かったか、どれほどその回復を喜んでいるか、冴子にはわかるつもりだ。
自分にも病と戦った家族がいたから。
次の瞬間には息をしていないんじゃないかと不安になり、失うことを恐れる気持ちは、痛いほど知っている。
「……冴子」
唐突に慶が呟いた。
冴子はびくっとした。
驚いたのは部屋にいる誰しも同じ。今回初めて発した言葉なのだ。皆が冴子を振り返る。
実際は、浮かんだ名前が口をついただけなのだが、そんな慶の心中など周囲にはわからない。
「……は、はい」
冴子は戸惑いつつ返事をした。中腰になり、慶から見えるよう顔を向ける。
「やっぱり……冴子だな」
慶の中にその名が浸透してゆく。
「あ、は、はい。そうですが……」
あまりに真っ直ぐ慶が見るので、冴子は視線を外した。周囲の注目からも、逃れたかった。
それが伝わったのか、風月が冴子を守るように抱きついた。
「風月ちゃん」
冴子はそんな風月の頭を撫でた。
途端、慶は不愉快な気持ちに襲われた。
冴子の逃げ腰な態度も、風月との睦ましい姿も、慶にはなぜか面白くなかった。
しかし次第にはっきりし始めた頭が、もっと憂慮すべき案件を思い出させた。意識を向ける方向が切り替わる。
「花鳥」
掠れ、常の張りこそなかったが、その声に強い意思を誰もが感じた。
再び皆、慶へと向き直った。
「その後、どうなったか教えろ」
短い言葉。しかし、それだけで十分。
花鳥は、安堵から息を吐き、そしてにやりと笑う。
「はいはい、それじゃ皆さん、ちょっと話するから退出してね」
花鳥は明るく言う。
言われるがまま、ぞろぞろと面付き達が外へ出ていく。冴子も風月に手を引かれ、続いた。
障子が閉まる際、冴子はちらりと中を見た。
その際、慶と視線が合い、冴子は気まずくなり慌てて逸らした。
「なんだあの態度」
慶は呟いた。冴子の態度がやはり気に入らなかったが、追いかけるのも癪に触る……今の状態ではどうせできないのだが。
部屋に残った花鳥は、むっつりとした慶を見て苦笑した。
「風月に取られちゃったね」
「は?」
「冴ちゃんのこと気になるんでしょ」
慶は苛立つ。
「あんな態度、取られたら面白くないだろ」
慶の言葉に花鳥は呆れた。
「あんね、最初に最悪な態度取ったのは慶でしょ。あの態度で好感持ったら、逆に変態だよ。本当、人間のくせに人間付き合い下手くそなんだから」
「……うるさい」
「それに、今回は冴ちゃんにお世話になったんだよ」
花鳥はそう言うと神妙な顔になった。
慶が花鳥や風月と出会い仲間になったのは、七つの頃。
以来、仕事の際は必ずどちらかと一緒であった。その間、慶は何度も怪我を負ってきたが、今回のような怪我は久方ぶりだ。
「桜島先生が捕まらなくて、僕らがどんなに焦ったか……」
桜島は、こちらの世界では右に出る者なしと言われている名医だ。
桜の大樹の化身であり悠久の時を生きてきた桜島は、人間の医術など足下にも及ばない程の知識と経験、能力を持っている。
しかしここ三年、仕事にも慣れた慶は怪我することも減り、桜島を呼ぶ機会もなくなっていた。
それが仇となった。
久し振り過ぎて、面付きを迎えに向かわせたはいいが、広範囲に渡り往診に出向く桜島の居場所を、すぐに特定できなかったのだ。
「冴ちゃんがいてくれなかったら、どうなってたか」
桜島が駆けつけた時に「よく持ったものだ」と、洩らした言葉が今も耳に残っていた。
「冴ちゃんってさ、びくびく怯えた兎さんみたいだったじゃない? それがあの時は、別人みたいで格好良かったよ」
花鳥は冴子が、てきぱきと動き対処してくれたことを慶に伝えた。
「それから、これは先生が言ってたんだけど……」
冴子は治療を補助し、とりあえず一段落着いた際、血で汚れた服を代えに一度部屋を出た。
桜島は冴子がいなくなると、花鳥に言ったのだ。
『あの子には、力があるのかもしれん』と。
「力?」
花鳥は慶の反応に頷いた。
「慶の治療をしてる時、微かな力の残り香を感じたみたい。血を留めようとしたんじゃないかって」
「自覚は?」
慶の問いに花鳥は今度は頭を振った。
「無意識じゃないかな。少なくとも冴ちゃんにそんな様子はなかった」
「……」
慶は胸を押さえた。与えられたという力を探るように。
「……おそらく、ここだからってのもあるんだろう」
この地では、力が容易に出しやすい。不可思議な現象や物体が頻繁に出現するのもその為だ。
「力の有無は、折々わかるだろう」
なんせ冴子は慶の妻になるのだ。人の生が短いとはいえ、それを確かめるくらいの時間は充分ある。
「何にしても冴ちゃんが来てくれたのは、運命だった気がするよ」
冴子との出会いはこの為だった、と考えずにいられない。
「……ふん」
慶は不本意だった。口には出せないが、神の手の上で踊らされている気がした。
「慶、これからは冴ちゃんに、優しくしてあげなきゃ駄目だよ。なんせ命の恩人なんだから」
「……」
「こら、慶」
「うるさい!」
「とりあえず、まずはちゃんとお礼し……」
「そんなことより、その後どうなったか教えろ!」
慶は話題を逸らした。
花鳥はわざとらしい大きな溜め息を吐きはしたが、それ以上、重ねて言うことはしなかった。
代わりに、うんざりした顔をした。目玉をぐるりと回す。
「どうなったも何も、あっちは、もうどうしようもないよ」
花鳥は嘆いた。
「抑えてるけど、時間の問題。いっそのこと成敗できたらいいのにさ」
「俺だって、八つ裂きにしてやりたいわ」
花鳥のぼやきに、慶は過激な同調をした。
「雪神め。覚えていろ」
この借りは必ず返す。慶は心に刻んだ。
その脇には、風月。また泣いている。後方には面付きの姿。
馴染みのメンバーだ。
しかし、何か物足りない。慶は無意識に視線をさ迷わせ、足りないと感じる原因に気づいた。
娘がいないのだ。
黒い髪。長い睫毛。冷たく、けれど優しい手をしていた。
あれは、夢だったのだろうか。
『そう言えば、名前』
考えていると控えめに障子が開き、思い浮かべていた人物が入ってきた。
冴子は部屋の中へ入ると、遠慮がちに座した。
入ってきたことを気にする者はいない。冴子も、家族の立ち会いを邪魔するつもりはなかった。
花鳥達がとれほど辛かったか、どれほどその回復を喜んでいるか、冴子にはわかるつもりだ。
自分にも病と戦った家族がいたから。
次の瞬間には息をしていないんじゃないかと不安になり、失うことを恐れる気持ちは、痛いほど知っている。
「……冴子」
唐突に慶が呟いた。
冴子はびくっとした。
驚いたのは部屋にいる誰しも同じ。今回初めて発した言葉なのだ。皆が冴子を振り返る。
実際は、浮かんだ名前が口をついただけなのだが、そんな慶の心中など周囲にはわからない。
「……は、はい」
冴子は戸惑いつつ返事をした。中腰になり、慶から見えるよう顔を向ける。
「やっぱり……冴子だな」
慶の中にその名が浸透してゆく。
「あ、は、はい。そうですが……」
あまりに真っ直ぐ慶が見るので、冴子は視線を外した。周囲の注目からも、逃れたかった。
それが伝わったのか、風月が冴子を守るように抱きついた。
「風月ちゃん」
冴子はそんな風月の頭を撫でた。
途端、慶は不愉快な気持ちに襲われた。
冴子の逃げ腰な態度も、風月との睦ましい姿も、慶にはなぜか面白くなかった。
しかし次第にはっきりし始めた頭が、もっと憂慮すべき案件を思い出させた。意識を向ける方向が切り替わる。
「花鳥」
掠れ、常の張りこそなかったが、その声に強い意思を誰もが感じた。
再び皆、慶へと向き直った。
「その後、どうなったか教えろ」
短い言葉。しかし、それだけで十分。
花鳥は、安堵から息を吐き、そしてにやりと笑う。
「はいはい、それじゃ皆さん、ちょっと話するから退出してね」
花鳥は明るく言う。
言われるがまま、ぞろぞろと面付き達が外へ出ていく。冴子も風月に手を引かれ、続いた。
障子が閉まる際、冴子はちらりと中を見た。
その際、慶と視線が合い、冴子は気まずくなり慌てて逸らした。
「なんだあの態度」
慶は呟いた。冴子の態度がやはり気に入らなかったが、追いかけるのも癪に触る……今の状態ではどうせできないのだが。
部屋に残った花鳥は、むっつりとした慶を見て苦笑した。
「風月に取られちゃったね」
「は?」
「冴ちゃんのこと気になるんでしょ」
慶は苛立つ。
「あんな態度、取られたら面白くないだろ」
慶の言葉に花鳥は呆れた。
「あんね、最初に最悪な態度取ったのは慶でしょ。あの態度で好感持ったら、逆に変態だよ。本当、人間のくせに人間付き合い下手くそなんだから」
「……うるさい」
「それに、今回は冴ちゃんにお世話になったんだよ」
花鳥はそう言うと神妙な顔になった。
慶が花鳥や風月と出会い仲間になったのは、七つの頃。
以来、仕事の際は必ずどちらかと一緒であった。その間、慶は何度も怪我を負ってきたが、今回のような怪我は久方ぶりだ。
「桜島先生が捕まらなくて、僕らがどんなに焦ったか……」
桜島は、こちらの世界では右に出る者なしと言われている名医だ。
桜の大樹の化身であり悠久の時を生きてきた桜島は、人間の医術など足下にも及ばない程の知識と経験、能力を持っている。
しかしここ三年、仕事にも慣れた慶は怪我することも減り、桜島を呼ぶ機会もなくなっていた。
それが仇となった。
久し振り過ぎて、面付きを迎えに向かわせたはいいが、広範囲に渡り往診に出向く桜島の居場所を、すぐに特定できなかったのだ。
「冴ちゃんがいてくれなかったら、どうなってたか」
桜島が駆けつけた時に「よく持ったものだ」と、洩らした言葉が今も耳に残っていた。
「冴ちゃんってさ、びくびく怯えた兎さんみたいだったじゃない? それがあの時は、別人みたいで格好良かったよ」
花鳥は冴子が、てきぱきと動き対処してくれたことを慶に伝えた。
「それから、これは先生が言ってたんだけど……」
冴子は治療を補助し、とりあえず一段落着いた際、血で汚れた服を代えに一度部屋を出た。
桜島は冴子がいなくなると、花鳥に言ったのだ。
『あの子には、力があるのかもしれん』と。
「力?」
花鳥は慶の反応に頷いた。
「慶の治療をしてる時、微かな力の残り香を感じたみたい。血を留めようとしたんじゃないかって」
「自覚は?」
慶の問いに花鳥は今度は頭を振った。
「無意識じゃないかな。少なくとも冴ちゃんにそんな様子はなかった」
「……」
慶は胸を押さえた。与えられたという力を探るように。
「……おそらく、ここだからってのもあるんだろう」
この地では、力が容易に出しやすい。不可思議な現象や物体が頻繁に出現するのもその為だ。
「力の有無は、折々わかるだろう」
なんせ冴子は慶の妻になるのだ。人の生が短いとはいえ、それを確かめるくらいの時間は充分ある。
「何にしても冴ちゃんが来てくれたのは、運命だった気がするよ」
冴子との出会いはこの為だった、と考えずにいられない。
「……ふん」
慶は不本意だった。口には出せないが、神の手の上で踊らされている気がした。
「慶、これからは冴ちゃんに、優しくしてあげなきゃ駄目だよ。なんせ命の恩人なんだから」
「……」
「こら、慶」
「うるさい!」
「とりあえず、まずはちゃんとお礼し……」
「そんなことより、その後どうなったか教えろ!」
慶は話題を逸らした。
花鳥はわざとらしい大きな溜め息を吐きはしたが、それ以上、重ねて言うことはしなかった。
代わりに、うんざりした顔をした。目玉をぐるりと回す。
「どうなったも何も、あっちは、もうどうしようもないよ」
花鳥は嘆いた。
「抑えてるけど、時間の問題。いっそのこと成敗できたらいいのにさ」
「俺だって、八つ裂きにしてやりたいわ」
花鳥のぼやきに、慶は過激な同調をした。
「雪神め。覚えていろ」
この借りは必ず返す。慶は心に刻んだ。