天の神様の言う通り
薔薇の花
慶の回復は目覚ましかった。
最初の三日こそ体を横たえ安静にしていたが、四日目に座れるようになると目に見えて回復し、一週間もすれば寝起きも食事も自身でやれるようになっていた。
完治には、かなりの月日が必要だということは、誰の目にも明らか。そんな怪我だった。
いくら回復には個人差があるといっても、慶の回復力ははっきりいって異常だ。
驚く冴子に、花鳥がこの地に宿る力故だと説明してくれた。
「ここは冴ちゃんもなんとなく気がついてると思うけど、特別な場所だからね。回復が早いのはそれと関係してるんだよ。慶はここの主人だから、特に効きがいい。でも、人によって差はあるから、怪我には気を付けてね」
花鳥の忠告に冴子は頷いた。
そして今、自身がいる場所が変わった場所だと……もう何度目になるだろう……思い知った。
花鳥は慶との対面を終えた後、再び何処かへ出掛け、その後も行って帰ってを繰り返している。慶の世話は専ら面付き達がおこなうようになった。
冴子はというと、慶の回復と共に面会することはなくなっていた。
ここまで回復すれば出しゃばる必要もないだろう。何より、経過が気にならないといえば嘘になるが、弱っている慶ならまだしも、平常の慶には、近づきたくなかった。
そこで冴子は、面付きを捕まえては、様子を聞いたり……彼らは話せないため、質問に頷くくらいしかできないのだが……風月にお見舞い品として、果実や花を持って行ってもらったりした。
「どうして自分で渡さないの?」
風月が不思議そうに尋ねた。
それは『捻れ庭』に二人がいた時のこと。
『捻れ庭』は、近頃の冴子のお気に入りだった。
まるでどこかの一場面だけ切り取ってきたかのように、景色も季節もころころ変わる庭で、昨日雪景色だったかと思えば、翌日は桜吹雪が舞う。
慶への見舞いの品々も、ここで調達したものだ。
冴子は風月の言葉に、無花果にかじりついたまま停止した。
二人は庭先に並んで座っていた。風月と逆の横には、慶への今回の見舞い品にするつもりで、熟れた無花果が籠に入れてあった。
「……私が行っても、ご迷惑じゃない、かな……」
冴子は視線を落とし、答えた。ゆっくりと、実を咀嚼する。
『好き好んで行きたくない』
それが本音だったが、花鳥と同じく慶を主と仰ぐ風月には言いづらかった。
「冴子は、慶嫌い?」
これまた直球な質問。
冴子は、ぐっと言葉に詰まる。
好きか嫌いかといえば、好きではない。
拐かされてきたのだ。その上、傲慢で偉そうな態度。好きになれるはずもない。
けれど、嫌いときっぱり言うのは躊躇われた。
看病している際、思ってしまったのだ。
仕方がないのかもしれない、と。
年相応の線の細い体。眠っている顔はもう少し幼く見えた。
その体に残っていた、無数の傷跡。それは過去に負っただろう怪我の証。
そして、ここに住まう者が誰しも慶を『主』と言うことにも、冴子は違和感を覚えていた。『主』と、呼ばれるには、慶はあまりに若い気がしたのだ。
誰も言わない。冴子も誰かに聞いた訳ではない。
けれど、目の前で眠る少年は、冴子の窺い知れない、何かを背負っているのではないか。
そう考えると、冴子の中に同情のようなものが湧いた。
単純にあの態度を嫌いだと言い切れなくなってしまった。
「嫌いじゃなくて、ちょっと苦手かな。……風月は好きなのに、ごめんね」
同情はしても警戒まで解けた訳ではない。
冴子だって、いつかは慶とちゃんと話さねばとは思っている。何より帰るには、避けては通れない道だ。しかし、それが簡単にまとまらないのは必至。気が重くなるのも道理だった。
風月は冴子の袖を掴んだ。
「慶は会いたいと思ってるよ」
「え」
「絶対思ってる」
「まさか」
風月の確信めいた言葉。しかし、冴子は疑う。
治療の手伝いをしたことを花鳥達から聞き、感謝してくれた可能性はあるが、会いたいは飛躍し過ぎる。風月は幼い。何かの言葉尻を勘違いしているのだろう。
冴子の気持ちが伝わったのだろう、風月はむきになった。
「本当だよ! 冴子が来ないから、不機嫌になってる。ぼくらに八つ当たりするんだから」
「……誰が、八つ当たりしてるだ!」
ガツ!
「うわっ! 痛!」
背後からの声。驚く冴子の横で、風月が頭を押さえていた。どうやら殴られたらしい。
「叩いたら痛いよー」
「それが狙いだ」
恨めしげな風月に、慶は鼻を鳴らした。
慶は二人の背後で仁王立ちしている。
突然の出現もだが、その出で立ちに冴子は驚いた。
「あの、もう、大丈夫なんですか?」
慶はちらりと冴子を見た。たったそれだけで、冴子は及び腰になってしまう。慶の服装は、寝間着ではなく普段着だった。
「いつまでも寝てられるか」
そうは言っているが、服の合わせから、未だ胸に巻かれた包帯が覗いていた。
風月も気づいたのだろう。神妙な顔になる。
「行くの? 慶」
「ああ。花鳥一人じゃ、そろそろ限界だからな」
「……あの子、まだ暴れてるんだ」
風月の声には不安があった。心細そうに慶を見上げる。
慶は、先程殴った頭を今度は撫でた。
「一発殴って黙らせられればいいが、下手に手は出せないからな。そのくせ、力が強い……まったく面倒な仕事だ」
慶は忌々しいとばかりにチッと、舌打ちした。
「ここには入れないようにはしてあるが、万が一がないとは限らん。風月、わかってるとは思うが注意してろよ」
風月は頷いた。
慶はそれを確認し、もう一度頭を撫でると踵を返した。
「あの、き、気を付けて……」
冴子は、そのまま去ろうとする慶に控えめに声を掛けた。返事を期待した訳ではない。
風月とのやり取りから、大変な仕事に向かうのだということがなんとなくわかった故、声を掛けずにいられなかったのだ。
冴子の声に慶は一瞬止まる。そして、部屋の中へ入ったかと思うと、間もなく戻ってきた。
両手いっぱいの花束を抱えて。
「え」
驚く冴子にそれをつっけんどんに差し出したから、冴子は二度驚くはめになった。
強い香りが鼻をくすぐる。
知らない花だった。
一つ一つが大輪で、牡丹に似ている気もするが、花片が分厚い。薄桃色の美しい花。
冴子は、花束を見て慶を見てを繰り返した。
「それは薔薇だ」
「……ばら?」
「異国では有名な花だ。西の方では色も大きさも豊富にある」
慶はずっと屋敷にいて、『異国』へ赴くことなど不可能だったはず。この花がおそろしく長持ちするなら話は別だが、違うならおそらくこれも特別な場所の成せる業なのだろう。
「これは、その、礼だ」
「は?」
今、ナントイイマシタカ? 冴子の頭に疑問符が浮かんだ。
「礼だと言っている!」
苛立ちを顕にもう一度、慶が言った。
「命を救ってもらった礼だ」
冴子は、今までこれ程偉そうに礼を述べられたことはない。
「慶、怖い」
代弁するように風月が横で呟き、冴子にしがみつく。
慶は、風月を冴子から引き剥がした。
「痛いよ、慶!」
「うるさい! お前は馴れ馴れしいんだよ!」
「だって」
「うるさい! うるさい! 大体、お前は何歳だと……」
「…………ふふ」
二人の言い争いに、冴子の笑いが混ざった。
「あ、すいません。その、あまりに仲が良いので……」
冴子は尻窄みに弁解した。最初は呆然としていた。しかし、目の前で繰り広げられるやり取りが、冴子の目には仲の良い兄弟の喧嘩に見えてきて、微笑ましかったのだ。それで、つい気が緩み笑ってしまった。
怒鳴られるかと思ったが、冴子の言葉に慶は舌打ちしただけだった。
「……俺はもう行く。風月と一緒に大人しくしてろよ」
慶は言うと、プイと後ろを向き、今度は戻っては来なかった。
冴子は、その耳が赤くなっていたことに気づいていた。もともと色白の慶だ。後ろ向きでも良く目立つ。
冴子は胸に抱えた薔薇の花束に目を向ける。
あれが慶なりの精一杯の感謝なのだろうことにも、もちろん気づいていた。
「あれなら、年相応に見えるかな」
冴子は、ぽつりと呟いた。先程の慶は絵にかいたような『思春期の素直になれない少年』だった。
気づけば冴子は、少し笑んでいた。
残された花束からは、甘い匂いがした。
騒ぎが起きたのは、それから四日後。
静かな夜のことだった。
最初の三日こそ体を横たえ安静にしていたが、四日目に座れるようになると目に見えて回復し、一週間もすれば寝起きも食事も自身でやれるようになっていた。
完治には、かなりの月日が必要だということは、誰の目にも明らか。そんな怪我だった。
いくら回復には個人差があるといっても、慶の回復力ははっきりいって異常だ。
驚く冴子に、花鳥がこの地に宿る力故だと説明してくれた。
「ここは冴ちゃんもなんとなく気がついてると思うけど、特別な場所だからね。回復が早いのはそれと関係してるんだよ。慶はここの主人だから、特に効きがいい。でも、人によって差はあるから、怪我には気を付けてね」
花鳥の忠告に冴子は頷いた。
そして今、自身がいる場所が変わった場所だと……もう何度目になるだろう……思い知った。
花鳥は慶との対面を終えた後、再び何処かへ出掛け、その後も行って帰ってを繰り返している。慶の世話は専ら面付き達がおこなうようになった。
冴子はというと、慶の回復と共に面会することはなくなっていた。
ここまで回復すれば出しゃばる必要もないだろう。何より、経過が気にならないといえば嘘になるが、弱っている慶ならまだしも、平常の慶には、近づきたくなかった。
そこで冴子は、面付きを捕まえては、様子を聞いたり……彼らは話せないため、質問に頷くくらいしかできないのだが……風月にお見舞い品として、果実や花を持って行ってもらったりした。
「どうして自分で渡さないの?」
風月が不思議そうに尋ねた。
それは『捻れ庭』に二人がいた時のこと。
『捻れ庭』は、近頃の冴子のお気に入りだった。
まるでどこかの一場面だけ切り取ってきたかのように、景色も季節もころころ変わる庭で、昨日雪景色だったかと思えば、翌日は桜吹雪が舞う。
慶への見舞いの品々も、ここで調達したものだ。
冴子は風月の言葉に、無花果にかじりついたまま停止した。
二人は庭先に並んで座っていた。風月と逆の横には、慶への今回の見舞い品にするつもりで、熟れた無花果が籠に入れてあった。
「……私が行っても、ご迷惑じゃない、かな……」
冴子は視線を落とし、答えた。ゆっくりと、実を咀嚼する。
『好き好んで行きたくない』
それが本音だったが、花鳥と同じく慶を主と仰ぐ風月には言いづらかった。
「冴子は、慶嫌い?」
これまた直球な質問。
冴子は、ぐっと言葉に詰まる。
好きか嫌いかといえば、好きではない。
拐かされてきたのだ。その上、傲慢で偉そうな態度。好きになれるはずもない。
けれど、嫌いときっぱり言うのは躊躇われた。
看病している際、思ってしまったのだ。
仕方がないのかもしれない、と。
年相応の線の細い体。眠っている顔はもう少し幼く見えた。
その体に残っていた、無数の傷跡。それは過去に負っただろう怪我の証。
そして、ここに住まう者が誰しも慶を『主』と言うことにも、冴子は違和感を覚えていた。『主』と、呼ばれるには、慶はあまりに若い気がしたのだ。
誰も言わない。冴子も誰かに聞いた訳ではない。
けれど、目の前で眠る少年は、冴子の窺い知れない、何かを背負っているのではないか。
そう考えると、冴子の中に同情のようなものが湧いた。
単純にあの態度を嫌いだと言い切れなくなってしまった。
「嫌いじゃなくて、ちょっと苦手かな。……風月は好きなのに、ごめんね」
同情はしても警戒まで解けた訳ではない。
冴子だって、いつかは慶とちゃんと話さねばとは思っている。何より帰るには、避けては通れない道だ。しかし、それが簡単にまとまらないのは必至。気が重くなるのも道理だった。
風月は冴子の袖を掴んだ。
「慶は会いたいと思ってるよ」
「え」
「絶対思ってる」
「まさか」
風月の確信めいた言葉。しかし、冴子は疑う。
治療の手伝いをしたことを花鳥達から聞き、感謝してくれた可能性はあるが、会いたいは飛躍し過ぎる。風月は幼い。何かの言葉尻を勘違いしているのだろう。
冴子の気持ちが伝わったのだろう、風月はむきになった。
「本当だよ! 冴子が来ないから、不機嫌になってる。ぼくらに八つ当たりするんだから」
「……誰が、八つ当たりしてるだ!」
ガツ!
「うわっ! 痛!」
背後からの声。驚く冴子の横で、風月が頭を押さえていた。どうやら殴られたらしい。
「叩いたら痛いよー」
「それが狙いだ」
恨めしげな風月に、慶は鼻を鳴らした。
慶は二人の背後で仁王立ちしている。
突然の出現もだが、その出で立ちに冴子は驚いた。
「あの、もう、大丈夫なんですか?」
慶はちらりと冴子を見た。たったそれだけで、冴子は及び腰になってしまう。慶の服装は、寝間着ではなく普段着だった。
「いつまでも寝てられるか」
そうは言っているが、服の合わせから、未だ胸に巻かれた包帯が覗いていた。
風月も気づいたのだろう。神妙な顔になる。
「行くの? 慶」
「ああ。花鳥一人じゃ、そろそろ限界だからな」
「……あの子、まだ暴れてるんだ」
風月の声には不安があった。心細そうに慶を見上げる。
慶は、先程殴った頭を今度は撫でた。
「一発殴って黙らせられればいいが、下手に手は出せないからな。そのくせ、力が強い……まったく面倒な仕事だ」
慶は忌々しいとばかりにチッと、舌打ちした。
「ここには入れないようにはしてあるが、万が一がないとは限らん。風月、わかってるとは思うが注意してろよ」
風月は頷いた。
慶はそれを確認し、もう一度頭を撫でると踵を返した。
「あの、き、気を付けて……」
冴子は、そのまま去ろうとする慶に控えめに声を掛けた。返事を期待した訳ではない。
風月とのやり取りから、大変な仕事に向かうのだということがなんとなくわかった故、声を掛けずにいられなかったのだ。
冴子の声に慶は一瞬止まる。そして、部屋の中へ入ったかと思うと、間もなく戻ってきた。
両手いっぱいの花束を抱えて。
「え」
驚く冴子にそれをつっけんどんに差し出したから、冴子は二度驚くはめになった。
強い香りが鼻をくすぐる。
知らない花だった。
一つ一つが大輪で、牡丹に似ている気もするが、花片が分厚い。薄桃色の美しい花。
冴子は、花束を見て慶を見てを繰り返した。
「それは薔薇だ」
「……ばら?」
「異国では有名な花だ。西の方では色も大きさも豊富にある」
慶はずっと屋敷にいて、『異国』へ赴くことなど不可能だったはず。この花がおそろしく長持ちするなら話は別だが、違うならおそらくこれも特別な場所の成せる業なのだろう。
「これは、その、礼だ」
「は?」
今、ナントイイマシタカ? 冴子の頭に疑問符が浮かんだ。
「礼だと言っている!」
苛立ちを顕にもう一度、慶が言った。
「命を救ってもらった礼だ」
冴子は、今までこれ程偉そうに礼を述べられたことはない。
「慶、怖い」
代弁するように風月が横で呟き、冴子にしがみつく。
慶は、風月を冴子から引き剥がした。
「痛いよ、慶!」
「うるさい! お前は馴れ馴れしいんだよ!」
「だって」
「うるさい! うるさい! 大体、お前は何歳だと……」
「…………ふふ」
二人の言い争いに、冴子の笑いが混ざった。
「あ、すいません。その、あまりに仲が良いので……」
冴子は尻窄みに弁解した。最初は呆然としていた。しかし、目の前で繰り広げられるやり取りが、冴子の目には仲の良い兄弟の喧嘩に見えてきて、微笑ましかったのだ。それで、つい気が緩み笑ってしまった。
怒鳴られるかと思ったが、冴子の言葉に慶は舌打ちしただけだった。
「……俺はもう行く。風月と一緒に大人しくしてろよ」
慶は言うと、プイと後ろを向き、今度は戻っては来なかった。
冴子は、その耳が赤くなっていたことに気づいていた。もともと色白の慶だ。後ろ向きでも良く目立つ。
冴子は胸に抱えた薔薇の花束に目を向ける。
あれが慶なりの精一杯の感謝なのだろうことにも、もちろん気づいていた。
「あれなら、年相応に見えるかな」
冴子は、ぽつりと呟いた。先程の慶は絵にかいたような『思春期の素直になれない少年』だった。
気づけば冴子は、少し笑んでいた。
残された花束からは、甘い匂いがした。
騒ぎが起きたのは、それから四日後。
静かな夜のことだった。