めぐり逢えたのに
決して居心地がいいとはいえない戸川での毎日。
戻るのは誰もいないマンション。スーツの内ポケットには離婚届がしまい込まれている。佐々倉の欄はすでに記入済みだ。

全ての縁を切ってしまうなら、今だと思う。この先に進んだら戸川から抜け出せなくなってしまうかもしれない。

そうしたら、自分はどうなる?万里花は?

すっかり遅くなってタクシーで帰宅しながら佐々倉はぼんやりと考える。
2、3時間の仮眠を取ったら、出社の時間だ。それに、会食の時間までにはっきりさせておきたいこともある。


手を引くなら、多分今が一番いい。

自宅でシャワーを浴びながらもなお、佐々倉は決断できなかった。
佐藤ばあが買い置きしてくれている、リンゴのパイ包みをコーヒーで流し込んで、慌てて職場に向かった。

閉じそうになるエレベーターを無理やり手でこじ開けて中に入る。
同じく出勤する万里花がいた。上品なワンピースにカーディガンを羽織っている。バッグはエルメスか。
清楚で可憐な姿に佐々倉は一瞬見とれた。

「おはよう。」
「おはよう。」
「………」
「………」

挨拶だけして後は無言だ。気まずい沈黙が流れる。
降りる直前、佐々倉は内ポケットに入れて持ち歩いていた茶色い封筒を万里花に渡した。

「何?」

怪訝そうな顔をされたが、佐々倉は

「後から連絡するから。」

とだけ答えて、タクシーを捕まえに走り出した。



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