きみと、春が降るこの場所で
伸ばした手に桜の花びらが掠める。
「おとうさん!」
桜の幹の陰から、こっちを覗く女の子がいた。
返事をするよりも早く、膝の辺りにドンと飛び込んできた軽い衝撃。
「詞架」
俺を見上げて、白い八重歯を見せ笑う娘の頬には笑窪が浮かぶ。
詞織が呼吸を止めた日。
思ったんだ。俺はもう誰の事も愛せなくて、詞織はきっとそれを悲しむだろうって。
詞織が全てだといえるほど狭い世界ではないけれど、確かに詞織がいて回る世界だった。
2度と会えない人に捧げる一生でも、よかった。
俺が愛した最後の人が詞織なら、詞織が最後まで愛してくれたのが俺なら、それでいいと本気で思えた。
けれど、変わらないもののなかで、移ろいでいく季節が連れてきてくれた。
詞織と同じくらい、愛おしく思える人。
詞織のために、涙を流してくれた人。
人の為に流す涙を綺麗だと思えたのは、2度目だった。
汚れた手のひらを俺のズボンに擦り付けて、詞架が首を傾げる。
「おとうさん、おかあさんは?」
「お母さんは来ないよ。家で留守番をしてくれているからな」
1年で1度だけ、俺はこの場所へ来ていた。
詞織を忘れないように、けれど詞織だけに捕らわれていないように。
詞架を連れてきたのは、詞織に教えたい事があったからだ。
1年で1度だけ、今日は詞織が生まれた日。
今日だけ、伝えていいんだ。
今も愛していると、言葉にして、風に乗せて、きみへ。