きみと、春が降るこの場所で


裾を引っ張ってぐいぐいと目元を拭う。


泣いちゃダメ。大丈夫。

病院に戻って、パジャマは泥だらけ、目まで赤く腫れていたら怒られるだけじゃ済まない。


早く路地を抜けたくて、思い切り駆け出す。


普通に運動をしたって平気。足が痛くなるくらいに歩いても、息が切れるくらいに全速力で走っても、疲れるだけ。

普段あまり動かないせいで運動不足だけれど、それ以外は問題ない。


院内であれば散歩は自由。

でもそれじゃあわたしは納得も満足も出来なかった。


知っているはずの広い世界をもう一度、何度でも見てみたい。

そのために抜け出し癖も上手くなった。首を傾げて誤魔化す事も覚えて、初めて入院をした時から仲のいい大熊先生も味方につけた。


いつでも満たされているように。

その日が来た時の後悔を少しでも減らせるように。

最期の瞬間を、笑顔で迎えられるように。


幸せな事を悲しいことに変えないで。

幸せだって笑えるわたしでいたい。


路地を抜けて、ついでに大通りを突っ切って、辿りついたのは河川敷、の下。


もう昼間というよりは夕方に近いけれど、平日だからか人に会う事もなくこんな所まで来てしまった。


立ち並ぶ桜にはひとつも蕾がついていない。

今年は桜前線の北上が遅いんだっけ。毎晩冷え込むもんね。

病院の中庭にも桜はあるけれど、どうせ見るのならまたここに来たいな。


青い空が陰り、もうすぐ夜がこの町を包む。

そろそろ帰らなきゃ。本当はこのままどこか遠くへ行ってしまいたいけれど、今ある全てを捨ててはいけない。


帰る場所。帰らなければいけない場所。

体ごとくるりと回って、遠くを見据える。


大きな病院だ。一生縁がないとさえ思っていたのに、今では病院だけがわたしの居場所になっている。


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