きみと、春が降るこの場所で


先日、主治医の先生が淡々と告げた言葉を、一文字も違えずに覚えている。


来年の春には、今と同じような生活を送れないかもしれない。

これまでの経過から見て、眠りには周期があるらしく、それが丁度一年後。


年末から年明けにかけて、それに近い眠りを繰り返していたからこそ、年々長くなる眠りを自覚してはいたけれど、はっきり言われて少なからずわたしも戸惑った。


二日も三日も眠り続けて、それでも普通の生活に戻ってきた。

異常な過眠も、波を過ぎれば遠のく。

それでいいと思っていた。それだけは、守っていてほしかった。

安堵を滲ませたお父さんの顔を見ると、少しだけ悲しいけれど、泣かせるよりはずっといい。


一年後、わたしはここにいるのかな。

ここでなくても、大嫌いなあの箱庭で、変わらずに生きていて、笑っているかな。


死ぬ事は怖くない。

だって、空にはお母さんがいる。そう思う事で何度も不安を乗り越えてきた。


ただ、残す人の事が気掛かりで。

つい最近までは生きる事だけに全てを捧げていられたのに、改めてわたしがいなくなった後の大切な人― ―お父さんを思うと、どうしようもなく、崩れてしまいそうになる。


誰かひとり、わたしがいなくなった後のお父さんに寄り添ってはくれないかな。

わたしがいなくても、お父さんが寂しくないように。


きゅっと目を閉じて、薄らと瞼を押し上げる。

どこまでも青かった空に侵入したオレンジを、ただ綺麗だと思った。


生きている。

今感じている幸せは、繋がっていく。


消えない思い出になって、覚めない夢になって、誰かに。


その誰かが、願わくば、わたしの大切な人でありますように。


桜の木に手を振って、来た道を引き返す。

何歩か足を進めた時、頬にぽたりと一粒の雫が滑った。


見上げた空は、さっきよりも少しだけオレンジが増した、綺麗な夕焼け。

今度は目に、ぽつんと雫が飛び込んできた。


夕立ちになるのかな。

慌てて走って、いよいよ本降りになってきた雨を凌ぐために陸橋の下で雨宿りをする。


これはもう…帰ったら説教されるんだろうな。

大熊先生は見て見ぬ振りをしてくれるだけで、助けてくれないから。


しばらく立ち尽くして、どうしようかと迷っていたけれど、さすが夕立ちというか、すぐに止んだ。


スニーカーで溝に溜まった雨水を蹴り飛ばして、ふと顔を上げる。


「あ…………」


遠いビル群の間を縫うように、途切れ途切れにかかる虹。

薄らと、本当に薄らだけれど、確かに虹が架かっている。


携帯もカメラもないから、残す事は出来ない。

代わりに、瞬きを忘れてじっと虹が消えるまで、空を見ていた。


ほう、と息をついた時には虹は消えて、オレンジの燃える空が視界を覆う。


昔、虹の上は歩けるのだと思っていた。

遠い遠い、会いたい人のそばまで連れて行ってくれる夢の橋。


実際にそんな絵本があった気がする。嘘っぱちじゃないかと、今でも怒りたくなるけれど。


お母さんに会いたいなー、なんて考えて、ホースを片手に虹を作ろうとした事だってある。


もし、本当に虹の上を歩けるのなら、素敵だな。

大切な人に会いに行ける。

すぐには無理でも、足跡を残しておけば、いつか会いに来てくれる。


だったらやっぱり、さみしくないや。

足跡が残るように、ずっと先の未来でまた会えるように、濃く深く虹を踏み締める日が来るといい。


その先で待っているお母さんと、沢山お話をしよう。

笑って、泣いた記憶のひとつひとつを抱えて。


虹の向こう側で、誰かを待っていよう。

足跡が消えてしまっても、きっとわたしを追いかけるように、虹はかかる。


そしたらまた、誰かがその上に足跡を残して、ずっと先まで続いていくんだ。


幸せも、記憶も、大切な人やものも。


抱き締めて、離さないでいる事が難しいものだって。

きっとまたいつか会えると信じていれば、そうなるよ。


だって、いつもそうだもん。


泣かないように笑えば、本当の笑顔になる。

また笑えるようにと流した涙が、いつかの笑顔に繋がる。


これからの時間で

出会う人を傷付けないように

出会った人を悲しませないように

そんな生き方を、少しでも変えられるといいな。


こわがらないで、明日を掴めるわたしになりたい。

出逢う事を、こわがらないで。


誰かに繋がる、虹を架けたい。



【きみに繋がる虹―過去―】


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