きみと、春が降るこの場所で


1時間ほどして、次どうぞ、と詞織がリビングに顔を覗かせた。


まだしばらく飲んでいるという彰さんの先に、脱衣所に入って思わず生唾を飲む。


綺麗な風呂だ。広いし、浴槽はデカい。

それになにより、いい匂いが漂っている。


詞織のシャンプーの匂いだろう。仄かな桃の香りは多分、ボディソープ。


なにも考えるなという方が無理な話だ。


なるべく意識しないように、まるで壊れかけのロボットのような動きで一連の流れをこなす。


風呂に入るだけでここまで緊張する事って、なかなかない。


適温のお湯に浸かって、ようやく一息つく。


誰かの家に泊まるのは、いつぶりだろう。


中学の時は友達連中の誰かしらの家に集まって、夜通しバカ騒ぎをしていたのに、高校に入ってからそんな付き合いはまるきりなくなった。


距離が、出来たんだ。

俺が何にも興味を示さなくて、話かけられても聞き流す事が増えたから。


友達はいる。けれど一線は越えない。そんな関係。


今思えば、中学の頃は走る事に熱中していたから、自然と仲間が集まっていた。

それがなくなって、自分を寄りかけていい場所がわからなくなった。


今も距離は変わらなくて、夏休みに入った途端に連絡は途切れた。


詞織は携帯を持っていないし、親とのやり取りもない。携帯電話を携帯する意味がないから、今日は家に置いてきた。


なにも、いらない。

文明の利器に甘えた繋がりを絶っても、手を伸ばせば届く距離にいるんだから。


詞織がいて、彰さんがいる。

それだけで、十分だろ。


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