きみと、春が降るこの場所で
小さな手ではなく、パジャマの袖から覗く白い手首を引っ掴む。
力を込めると折れてしまいそうな程に細い手首のその奥が一瞬だけ、見えた。
点々と注射痕の残る腕。
「えへへ」
俺の視線に気が付いたのか、手首まで袖を引っ張って誤魔化す。
バレバレだ、馬鹿かよ。
騙されたフリをしてやって、パジャマの上から手首を握り直す。
どれくらいの歩調がちょうどいいのがわからないから、ゆっくりゆっくり、通りすがりの腰を丸めた老人と同じ速度で歩いていると、詞織が吹き出して笑う。
「そんなにゆっくりじゃなくていいよ。わたしね、走っても大丈夫なんだ」
自信ありげな所が怪しい。
口ではそう言うけれど、実際に走った事はないんじゃないかと勘繰ってしまうくらいに。
そんなに走りたいなら走ってやろうかと思ったけれど、元陸上部の俺について来るのは厳しいだろう。
走り出せば、止まらなかった日々を思い出すだけで、今だってどこまでも行ける気がする。