きみと、春が降るこの場所で
詞織が風呂に入っている間に、彰さんに家電を借りて自分の携帯に電話をかける。
いつもの俺なら、夜に帰って来なくたって誰も心配なんてしないだろうけれど、今日は事情が違う。
俺が風邪を引いている事を兄貴は知っているから、無断外泊はまずい。
ベッドの上に放り投げた携帯はマナーモードには設定していないはずだけれど、壁の厚い部屋な上に、隣室は使っていないから、誰も気が付かないかもしれない。
家の電話にかけると、間違いなく母親が受話器を取るから、それは避けたい。
つまり、この電話に出てもらいたい人間は、ひとりだけ。
『もしもし』
数分間鳴り続けたコール音が止んで、今朝耳にしたばかりの低い声に切り替わった。
「兄貴。俺、朔だけど」
『朔?何でお前がお前の携帯にかけるんだ。そもそも、携帯は持ち歩かなければただの電話だろ』
「説教ならいらねえよ。携帯電話は携帯する、わかったから」
出て欲しいと思っていたやつと通話をしているのに、何でこんなにイラつかないといけないんだ。
落ち着け、喧嘩腰で話すとかえって冷静な対応をされるって、わかってるだろ。
『朔。シオリというのは、恋人か』
「っ…は、違うよ」
携帯にかけたんだから、名前が表示されるに決まっている。
バカだな、俺。なんで【田山】で登録しなかったんだろう。
兄貴がシオリって名前を呼ぶだけで、吐き気がする。
『母さん達に言ってやろうか』
「ふざけんな。絶対言うんじゃねえぞ」
わかりやすく語尾が震える。
兄貴は脅しているつもりなんてない。冗談で、けれど場合によっては本気にするつもりで、言っている。