若先生の箱庭 心の安らぎを求めて その3
タイトル未編集
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私と子供 その2
あまりにも毎月の排卵がおかしいので、検査してもらった事があります。その時にはエコーの検査だったのですが、どこにも異常はないということでした。基礎体温表を産婦人科のドクターに見せると、しぶい顔をして「治療しますか?」と聞かれました。体温がバラバラだったのです。でも、私はそれを拒否しました。今もいつ月経が来るのか分からない状態です。それでもきてしまうと、身体中がどろどろした感覚に陥ります。自分はものすごく真っ黒なのだと感じます。辛くて苦しかった私は「子宮を取って下さい」と言ったこともありました。でも「異常のないものは病院ではとれないんですよ」と言われました。子宮は命を生み出す所ですが、私には反対のものにしか思えなかった。やっぱりとっても悲しくなりました。
どうにかしたかった私は、必死になって何か方法はないかと探して、やっと一つだけ見つけました。それは腹膣鏡手術という方法でした。
痛みに繋がる神経に繋がっているじん帯を切ってしまう、というものです。もちろんメリットはありますが、デメリットも沢山あります。
「機能性月経困難症」
いわゆる、痛みに何かしらの原因がない場合、手術をしても結果が出ない、ということもあるし、100%痛みを取れるという保証もありません。かろうじて、月経困難症と病名がついていた私は手術を受ける事にしました。この時の手術は出血も殆どなく、若先生のお取次を受けて、うまくいったのですが、満足な結果が得られず、とても残念な結果に終わってしまいました。私に残ったのは、臍の横と、脇腹の横に残された手術の跡だけでした。ここでも絶望してしまいました。痛みがとれるのをとても期待していたからです。一度、切ってしまったじん帯は二度とは戻りません。そして卵管を広げてしまったために、逆に出血量が多くなってしまいました。痛みを通り越して、鈍痛が私を襲いました。運命を呪いました。「どうして私だけが!」という思いだけが残った手術でした。
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私と子供
私の中の一番古い記憶は、置いてあったソファーから外をただ眺めている、ただそれだけです。回りの家の子供は日中、幼稚園に行っているので、遊ぶ相手がいなかったし、だからといって母親が遊んでくれたかといえば、そうではありませんでした。
ある日、友達の家へ遊びに行きました。そこには、私の家のように怒号も罵声もありませんでした。ただ、暖かいものが流れているだけでした。そして、これが家庭というものだと思いました。逆に私の家は何なのかと思ったら、家庭ですらないのです。要するに「機能不全家族」でした。
私は子供が大嫌いです。姿を見るのもダメ。声を聞くのもダメ。どうしても排除したくなるのです。例えば、子供の骨を折ったら静かになる。階段から突き落としたら、目の前からいなくなる。そう思ってしまいます。けれどそれは立派な犯罪だし、殺人です。私を担当している精神科のドクターにこの事を最初に相談した時に「子供の頃の辛い経験からそういう風に思ってしまうのではないんですか?」と言われました。でもそれは違うのです。子供を見るとたぶん、誰しもが「可愛い」とか「抱き締めたい」とか「守りたい」と思うものでしょう。でも、私にはその思いが欠如しています。
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いじめと自殺 その2
それは学級会で席替えの話になってもめた、小学校四年生の時でした。台所から包丁を抜き取って、自分のベッドに隠しました。お腹を刺してしまおうと思ったからです。遺書も泣きながら書きました。恨みよりも、早く別の場所に行きたかった。私のいる場所はここではないのだと、そう思いたかったからです。
一度目に包丁で刺した時にはとても痛かった。すぐにもう一度、もっと深く刺したけれど、やっぱりとても痛くて出来なかった。自殺する方法は他にもあるけれど、あの時はその方法しか思い付きませんでした。私は確実にこの世から消えてしまいたかった。隣の芝生は青々として、とても綺麗に見えたのです。
結局、いじめは、小・中・高校生と続きました。
さすがに社会人になった時には、こんなに陰湿ではなかったけれど、それでも相手が私を嫌っているのか、そうではないのかということは、すぐに判別がつきました。
いじめは、いじめる側にも原因があるけれど、いじめられる側にも責任があるのかもしれません。それは、私がいつもおどおどしていたり、私の容姿が気に入らなかったり、物事をはっきり決めるのができなかったりと、自分で原因を上げたらきりがないのです。今考えても仕方のない事ですが。
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