藤の紫と初の幸せ
藤の紫と初の幸せ
あ、と声を上げた時にはもう突き飛ばされて地面に手を着いた後で、ぱっと顔を上げてその名前を呼んだ時にはもう幸ちゃんは人混みに紛れてしまっていた。
「幸ちゃんっ」
「わりいなー初! 昼食いに行くからよ!」
「もう! 幸ちゃんってば!」
大丈夫かお初ちゃん、と近所のおじさんが手を差し伸べてくれる。その手を掴んで立ち上がると、私は着物についた土をぱたぱたと掃った。
もう、すぐに夏になる。
桜は散って、藤の花が咲き乱れる季節。もう少しすると長い雨の時期になる、束の間の日本晴れ。
幸ちゃんは、本来は私とは無縁な大店の跡取り息子だ。着物商の飯野屋といえば地元じゃあ分からない人はいないような程。歳は十五で、二つ下と三つ下に妹が二人いる。
私は幸ちゃんと同い年で、実家は小さな蕎麦屋。長男でもある弟が家を継ぐことになっているから、私は仲のいい小料理屋さんで下働きをさせてもらっていた。
私と幸ちゃんは、生まれた日が一日違いだと、私のお母さんから聞いた。取り上げた産婆さんが同じで、幼いころに通っていた寺子屋も一緒。気付いたら一緒にいた私と幸ちゃんは身分なんて気にせずに過ごしていた。物心ついた時から、幸ちゃんは傍にいた。
身分、というものをちゃんと自覚するようになったのは、十かそこらの頃だったと思う。
着るものが違う。食べているものが違う。家にいる人数が違う。
ずっと一緒だと、同じだと思っていたのを裏切られた気分だった。
だからあの時、私は一緒にいちゃいけないんだと思って、離れようとしたのに。
我儘な幸ちゃんはそれを許してはくれなくて、それからも私達は一緒にいることが多かった。
「お初、廊下の掃除頼んだよ」
「はい、女将さん」
「……あらまあ、また若旦那様に何かされたの?」
「え!?」
用事を済ませてお店に帰ると、女将さんにそんなことを言われた。慌てて自分の身なりを確認するが、着物に特に汚れは見当たらない。