彼女は僕を「君」と呼ぶ
それから3分と経たずに待ちかねの小野寺教諭が扉を開けた。

本日のスーツは黒。すっきりとした細身のパンツとシンプルではあるが、ワインレッドのネクタイがリクルートとは一線を引く。

成程な。
まったくもって難儀な事に、小野寺教諭を観察するのが癖ついてしまっている。

「起立」

日直の掛け声に合わせて礼をして、不自然にならぬよう心掛けながら彼女を隠すようにゆっくりと動く。

立っている方がまだ隠せただろう。
これから50分が勝負だというのに維は既に疲れが滲む。
もう一層の事、彼女の存在を忘れるのはどうだろうか。

何時もこの席に座っているのは、橋本という女子生徒だ。大人しく控えめな印象がある。今日は風邪だと担任が言っていた。

昼食を済まし、比較的暖かな日差しが差し込んでクラス中に睡魔が忍び寄っているだろう、誰も気づく筈などない。

後ろにいるのは橋本さん。まじないの様に繰り返していると、後ろから背中を突かれる。

「わくわくするね」

あぁ、駄目だ。
まじないなんて無意味で、すぐにそこに居るのは、満島棗であると思い出してしまった。

なんて可愛らしく笑うのだろう。

普段向けられることすらない笑顔のせいで胸が煩く跳ね、花が綻ぶように笑われてしまえば後悔などないのが正直なところだ。

チョークの走る音。僅かなノートの擦れる音やページを捲る音がやけに大きく聞こえる。

それに混じって維の心音は嫌に大きく耳にまとわりつく。

もし、彼女と同じクラスならば気兼ねなく後ろを振り向く事も出来ただろうに。などと甘い事を考えつつ、彼女を隠すように背筋を伸ばす。

今ここにいる誰よりも、維の姿は真面目に映っただろう。
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