彼女は僕を「君」と呼ぶ
それっきり会話をするのが億劫で、唯無言の時間を引き摺り、今日は駄目だと維は立ち上がった。

「まだ見ていくの?」
「もう少し」

本格的に瞬き始めた星が呼吸をするように、ちか、ちか、空を飾る。
温度がゆっくりと下がったのを肌で感じ、身震いした。

彼女も時折鼻を啜っている。寒いなら帰ればいいのに。何度も思った事ではあるが、一度も声には出したことがない。どうせ、聞き流されるに決まっている。

彼女の目線の先には明々と電気が漏れる中で、忙しそうに動き回る小野寺教諭の姿を見つける。

あぁ、これでは尚更帰らないだろう。
スー、そんな音を立てて風船が膨らむ。

これは維だけの感情、勝手に考えるのも傷つくのも維で、彼女はそんな維を見たりしない。
久野もそうなのだろうか…。

自分の中で処理するべく息を吐き出した。

「じゃ帰るね」

彼女の顔を覗き込むと、その睫毛が一瞬、ぴくりと震えたのを見た。

勝手に付き合っていた事だが、夜が遅くなれば彼女を駅まで送っていくのが通常としていた。
約束した訳でも義務でもない。

「ばいばい」

白い頬が赤くなっている、膝も。寒いくせに。

一人分の隙間を開けて身体を滑り込ませる。重い扉のせいで締める際は大きな音が立たぬように注意を払わなければならない。

身体が抜けた後、ゆっくりと閉じる扉の隙間から、彼女が踵を下したのが見えた。
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