キミが欲しい、とキスが言う
「ネクタイ曲がってる、馬場くん」
「え?」
「貸して」
一度ほどいて、もう一度結びなおす。
ネクタイの結び方は、キャバクラ時代に覚えた。ネクタイを外してすっかりリラックスしたお客様たちを、現実世界に戻す儀式みたいなもんだ。ネクタイを結んで、“ありがとうございました”。それで夢の世界はおしまい。
「……うまいね、茜さん」
「まあ、ホステスですから?」
「ホステスってそんなこともするのかよ」
「たまによ。ほら、ネクタイ頭に巻いてカラオケするおじさんとかいるじゃない」
「そんなの、そのまま帰らせればいいだろ」
「そういうわけにいかないのよ。面倒くさいこと言わないで」
怒られているのに、なぜか嬉しい。
浅黄公認の偽婚約関係を結んだ私たちは、案外普通の恋人同士みたいなことをしている。
「それより茜さん、呼び方」
「分かってるわよ。幸紀さん、でいい?」
「くんの方が自然だろ。茜さんの方が年上なんだから」
「何よ。ばばあって言いたいの?」
「そんなこと言ってないだろ。変なところ突っかからない」
すっかり打ち解けたこの関係が、心地よい。でも、彼は私の気持ちを知らない。
むしろ私が彼を利用しているだけだと思っているはずだ。
くい、と服の裾を引っ張られた。見ると浅黄が困った顔で私を見ている。
「ねぇ、もう行こうよ」
「あ、そうね」
「おう。外暑いなー」
そんなわけで私と馬場くんと浅黄のニセ家族は、実家へと向かったのだ。