キミが欲しい、とキスが言う
「馬場さんが急に引っ越すっていうから、嫌な予感はしていたんですよね」
「だったら全力で止めなさいよ」
「でも同僚の引っ越しに反対するっておかしいじゃないですか」
まあね。
でも引っ越し先が薄々予想できているなら、何かしら手を打ってくれてもいいのに。
「ところで、橙次はいる?」
「厨房にいます。忙しい時間なんてほどほどでお願いしますね」
「分かってるわ」
厨房に向かう間に、従業員のつぐみちゃんや上田くんが、私を見つけて会釈をする。それに返事をしつつ、厨房に乗り込んだ。
「ちょっと、橙次」
「お? 茜。久しぶりじゃん」
白いコックコートを着て、包丁を滑らせるように扱っている橙次は、私を見るなり無邪気に笑いかける。
ちらりと見渡すと、今日のもう一人の調理師は仲道くんのようだ。
「……馬場くんは?」
「幸紀ならさっき帰った。あいつ、しばらく昼番に入れてくれって言ってるから」
「昼に?」
どうして?
私に会うために引っ越してきたなら、夜に家にいたって仕方ないんじゃないの。
「ああ。で、どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないわ。人のアパート、許可もなく教えないでちょうだい」
「まずかったか?」
「普通はまずいのよ、個人情報の取り扱いには注意しろって言われなかった?」
「言われたなぁ。でも俺らが子供の時なんかさぁ」
昔話はいらないのよ。
変なところはおっさんくさいんだから。