キミが欲しい、とキスが言う
橙次は何度かアパートに来たことがある。
男手があると助かる場面っていうのは、暮らしていれば結構あるから、なんとなく付き合うようになってから、よく呼びつけたものだ。
別れてからも、家の中を模様替えするときなんかは頼んだりもした。
橙次は小さい子には優しかったから、浅黄も結構なついていたものだけど。
「もういいわ。馬場くんがストーカーになったら、橙次が責任とってよね」
「あいつがぁ? ないない。あんまり執着心ないよ、幸紀」
私だってそう思ってたわよ。無口だし、出しゃばらないし、ずっと印象は薄かった。
なのにここにきて、ぐいぐい来るのはいったい何なの。
「分からないわよ。人間なんてどこで変わるか分からないじゃない」
そうよ。人生どう転がるかなんて分からない。
橙次だって、一生結婚する気ないとか言ってたくせに、つぐみちゃんが現れた途端、あっさり結婚したじゃないの。
ダニエルだって愛してるなんて口だけで、連れて行ってはくれなかった。
絶対なんてないんだって、今まで散々思い知らされてきたんだから、もう信じないわよ。
「まあそうだが。幸紀は悪人ではないよ。それは断言できる」
橙次がはっきりそういうのと同時に、光流くんが注文を言いにきて、厨房は慌ただしい空気に包まれる。
これ以上は邪魔になるだけだ。そう理解して、私も席に戻る。
「茜さん、こちらにどうぞ」
つぐみちゃんが用意してくれた二人掛けのテーブル席。
メニューを渡そうとする彼女に「なんでもいいわ。おススメの鍋でも出して」と八つ当たりのように告げる。