ムサシひとり
第二章 ムサシの正体
二)

『ヤブレタリィ、コジロ!』

およそ人の声とは思えぬその怒声に、一瞬、小次郎はたじろいだ。
小次郎の長剣よりも長いムサシの櫂は、一瞬間、小次郎の視界からムサシと共に消えた。

剣の天分に関しては、小次郎の足下にも及ばないムサシの体を見失った小次郎は、焦りと不安の色を、その時だけは隠せなかった。

小次郎の顔は蒼白となり、目は焦点を失った。

小次郎の天分の象徴ともいうべき長剣は、忌まわしいムサシの一言で、秘太刀「燕返し」を忘れた。

『ヤブレタリィ、コジロ!』

ムサシの口から放たれたその言葉に、小次郎は金縛りにあった。

そこにはムサシではなく、数百・数千の民衆と、そして朱美の、それらが一体となったー巨像があった。

“あのムサシってのは、人間じゃねぇんだってょ。唐天竺から追い出された、鬼神だって話だ。”

“兎に角、すごいの何の。名門吉岡清十郎といい、今度の仇討といい、まるで鬼神だそうだ。二本の刀を自由自在に振り回して、バッタバッタと切りまくったそうな。”

“それにしても、ムゴイじゃないか。まだ年端もいかねぇ子どもまでもよぉ。”

“そういゃ、あのムサシ。米の飯は喰わずに、鳥や獣を喰うそうじゃねぇか。草や木の根っこもかじっているそうな。恐ろしいこった。”

“兎に角、大男だとょ。眉毛が赤く、目は青いそうだ。しかも、ギラギラ光ってるんだと。鼻なんかもょ、上唇にくっつくかってぇ話だ。”

“口も、仁王様みてぇにでっけぇらしいぞ。”

“小次郎様、朱美は嬉しゅうございます。でも、哀しゅうもございます。あのムサシという男、鬼神との噂。いかな小次郎様でも、かなわぬとのもっぱらの噂でございます。”

“朱美は、小次郎様が憎い。殺してやりたい。でも、・・・。お願いでございます。ムサシとの試合、おやめになってくださいまし。朱美の一生のお願いでございます。”
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