ムサシひとり
第四章 小次郎の焦り
(四)

約束の刻限を過ぎても、ムサシの姿は見えなかった。

日は正天にあった。

照りつける太陽の下に、小次郎は彼是一刻(約2時間)を過ごしていた。

自他共に許す天才剣士の名の下に、どうしても焦りの色を見せる事はできなかった。

立会人の小谷新右衛門の言葉がかかり、ようやく小次郎は、松の木の下に体を休めた。

物見遊三で集まった武士達の喧噪(けんそう)を他所に、小次郎はほくそえんだ。

小次郎の心中には、ムサシとの勝負は無かった。

ムサシ如きを問題にすること自体、小次郎には腹立たしいことだった。

今の小次郎は、朱美の用意した鉢巻きが気になっていた。

人を愛する心など、微塵(みじん)も持ち合わせていない小次郎にとって、朱美の存在は時には苦痛でさえあった。

が、朱美の小次郎を見る目は、他の誰もが持つ目ではなかった。

小次郎を取り巻く多くの女・誉め讃える武士どもの、腐った魚の如くに濁った目とは全く異質の、鋭く射るような光があった。

決して、小次郎に対する愛だけがあったのではない。時には憎悪となり、軽蔑の光さえあった。

しかし、その朱美の目の光には、他の誰もが持たぬ真実があった。

“ムサシとの試合が終われば、朱美の心根も変わるだろう。”

“他の者と同じように、私を「神」と崇めるだろう。”

時折前髪を揺らす風を、小次郎は心地よく感じた。

ギラギラと輝く太陽の下の海は、凪いでいた。

寄せる波、引く波、小次郎の目は次第に海から離れた。

焦点を失った目の中に、恩師鐘巻自斎の死の床での言葉を思い浮かべていた。

「お前は、お前を作り上げたものによって、滅ぼされるのだ。」

“ふっ・・笑止な!・・”

“この後私は、天上天下唯一の「剣神」になるのだ。”

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